「Kyrgyz_History_Travel」カテゴリーアーカイブ

観光案内 ビシケク、ウスカタ、ブラナ等

キルギスの観光案内      (出典不明 観光小冊子か?)

(2000年頃訳2018年4月一部修正)

観光歴史その2

1.ビシケク市 マナス像周辺

観光のためには、まず共和国の首都ビシケクから旅が始まります。ここには、ガイドブックに載っているたくさんの記念像と名所があるからです。最初に、マナス叙事詩の伝説の英雄に関係がある広場から旅を始めましょう。キルギスでは、1995年にマナス叙事詩の1000年を祝いました。叙事詩に関わる彫像群は、国立音楽堂前の広場にあり、特に厳粛な気持ちにさせてくれます。

ビシケク 音楽ホール前のマナス像19年6月
ビシケク マナス像 中央マナス、左カニケイ、右バカイ  19年6月

彫像の中央には、馬に乗っているマナスの像が、ひときわ高い台の上に立っています。高さは21メートル、材質は銅です。像の作者は、マナスの姿に優しくて公平で勇敢なリーダーについて、民族のイメージを表現しました。彫像家が、マナスに神話の竜が彫ってあるよろいを、威力と偉大さのシンボルとして着せたのは偶然ではないでしょう。

優雅で比ゆ的な像の内容を、横にいるマナスの妻「カニケイ」とマナスの助言者「バカイ」の像が豊かに表現します。すらりとしたカニケイが女性美と高徳のイメージを、バカイが知恵と心優しさを表現しています。

さらに、過去と現在の叙事詩伝承者たちの胸像が、叙事詩の世界へ人を導きます。彼らは、ナイマンバイ・バリコワ、トゥヌベカ・シャピーエワ、サグトゥバイ・オロズバコワ、サヤクバイ・カララエブです。きれいな緑の芝生と対照的な赤い花崗岩で、彼らの容ぼうを彫ってあります。

ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月
ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月 右がサヤクバイ

彫像群の中央には噴水を設置してあり、これらの製作者は、彫像家トルグンバイ・サティコブと建築家ベチョンキンです。

マナス叙事詩が、民族の中に独自の人気を持ちつづけながら、キルギス人の精神生活に同一化しましたから、この像がキルギス民族の文化の部分を形にしています。広大な物語の重要な趣旨は、キルギス民族の結集と独立への希望です。マナス叙事詩世界の民族にある叙事詩の詩歌の中に特別な位置を占めています。この叙事詩の不変の人気は、すばらしい芸術的な内容と詩の適格さ、磨き上げた言葉、比ゆ的性格付けで叙事詩の出来事と社会的生活を目の前にあるように見ることができるためです。

 

2.優しい姿 ウスク・アタの仏陀         (チュイ州)

ビシケク市の南東75キロにあるウスク・アタの谷は、素晴らしい自然で有名です。蒼い山肌で緑の木々の中にある山々、山あいを白い筋になって流れる渓流、何世紀も経たもみや松、草原や花、自然の霊気に満ちた空気、鉱物を含む温泉源―これらは全部、天が与えた恵、母なる自然の豊かな贈物で、昔から人々の心を引きつけています。

中央アジアの民族は、いつも泉を崇め、神聖なものとして崇拝しました。アラシャンという神聖な泉で病を治すために、長い道のりを貿易の隊商や参拝者が越えました。今でもここに温泉地が営業していて、治したい人々が途切れずやってきます。

温泉の手前で、昔の芸術家が石に彫った「母女神」の絵が客を迎えます。ここで旅人たちは、心を世間の奔走から解放し、至福に満ちながらある儀式をしました。幸福を与える仏陀と会う前に、絵を芳香油で磨いたのです。

仏陀の画いてある石は、泉の少し上に位置しています。信者たちは、仏陀の姿が現代の見物人のために分かりにくいと思っています。とはいえ、絵の主要な点は、きれいにはっきりと保たれています。幸福を与える仏陀は、蓮の花の上に座わり無限の輪で囲まれて、何世紀もの過去から人々のまなざしの前に現れます。

ウスカタ 仏陀の像 19年6月
ウスカタ 仏陀の像 19年6月

芸術家は、120*113センチの面に仏陀と今はわずかに見える五つのチベット文字の銘を彫りました。仏陀は仏教の伝統的な蓮の花の上に座っている聖像の姿で表しました。この銘は、伝統的な仏教(ラマ教)の様式として解読されました。このことについては、最初にロシアの東洋学者ベセロフスキが19世紀の終わりに記述しました。

20世紀の初めにH.H.パントゥソフは、仏陀の絵についてキルギスでのいけにえを供える儀式について記述しました。キルギス人がブルハンという神(昔、チュルク人とキルギス人たちは、中央アジアとモンゴルの仏教の神をブルハンと呼びました)を神聖なものとして崇拝して、水の神をアラサンと名づけ、呪術を使ったり家畜をいけにえに供えたりしました。仏陀の絵は8世紀の作だと、近代の研究者たちは確認しています。

イシク・アタの絵は、温泉源にある仏教の聖なる場所を示していると考えることができます。優れた芸術家が神聖な絵を画いたのは、場所の神聖さを強調するばかりではなく、やはり、泉に来る人たちに時代と世代の関係について、そして仏陀の賢明な教えについて思い起こさせるためです。

 

3.ノボゴロド町の遺跡(クラスナレチカ遺跡)     (チュイ州)

昔、この町は「ナベカト」といわれ、「新しい町」という意味でした。中世にいろいろな言語、中国語、アラビア語、ペルシア語で書いた資料が、シルクロードの通路にあったテンシャンの貿易センターのスヤブという大きな町について触れています。町の大きさと要塞の強固さ、用水堀にさらさら音をたてていた水、建築家と画家と手工業者との芸術の全部が外国人を驚かせました。さらにこの町の中で、異なった宗教を信仰した、仏教徒、ゾロアスター教徒、ネオストリアン教徒、マニ教徒、土地の自然崇拝者などの様々な民族であるソグジャ人、トハリ人、チュルク人、シリア人、土地の部族などが、平和と調和の中に暮らしているのはなにより驚かせました。何万人もの人で満ちている多神教の町が人々の住居でした。

クラスナヤレチカ遺跡の見物者は、古代の住宅地の規模と広大な小高い丘、壊れた建物の長い土塁と町の擁壁に驚かされます。廃墟の空間が想像を呼び起こしたり、伝説や神話を思い出させます。これは、科学的な資料と合わせて、古代の町の生活風景を思い起こさせてくれます。今、遺跡となっているところに6世紀に住宅地が造られました。初めここは、貿易の通路に別々にあった強固な城でした。城の周りに手工業品や貿易品を売る店、仕事場、礼拝所がだんだんとできて、建物と財産を守るため町の周りに外壁を造りました。城と二つの地区(シャヒリスタン)とは別に、個人の住宅に壁をめぐらせた地域とで町が拡大していきました。

今も残っている住居を発掘した結果、進んだ手工業の製造品や建築が発見されました。農業と貿易と手工業が経済の基礎でした。

 

4.ブラナ       (チュイ州)

トクマク市の南西12キロのところに、中世にカラハニド(940~1210年)の首都だったバラサグンという町の遺跡があります。ブラナという名前は10~11世紀の回教寺院の塔からきています。

ブラナの塔 19年6月
ブラナの塔 19年6月

キルギスの歴史でカラハニド朝の時代は、封建関係の進展、経済、貿易、政治において最高の時代でした。また、チュルク民族の起源と文化、言語の高まりの重要な段階でありました。まさにその時代に、東洋の古典となる有名な作品を二人のチュルク人が書いていました。バラサグン生まれのユスフ・ハネハジブは、叙事詩「クタドグ・ビリグ(利益を与える知識)」を、そして偉大な学者ムハマド・カツガリは、チュルク語方言の最初の百科辞典「ヂバヌルガット・アタ・チュルク」を書きました。

ユスフ・バラサグニは、ここに1015年または1016年から1070年まで住んでいました。バラサグニは知名な詩人で、教養が高く、ヒューマニストでチュルクの古典文学の創始者として詩歌の世界で有名でした。50歳で叙事詩「クタドグ・ビリグ(利益を与える知識)」を書き、芸術性の高い思想と理想を表しました。

バラサグン町は25平方キロで、中心は四角な要塞と市街地の二つの部分に分かれていました。そこには、手工業者、商人、農民、市民の家がありました。町全体は2列の壁で囲まれ、町を川が流れて、四方八方に水道管と水路が引かれていました。ブラナタワー(ジャミの回教寺院の尖塔)が遺跡の東側にあり、その隣に宮殿と王朝の墓があります。ブラナタワーは、高さ4メートルの六角形の台、高さ18メートルの円柱形の塔、そして地中の強固な四角な土台の三つの部分からなっています。この塔は、地震で元の高さの半分だけ残っています。当初の高さは46メートルぐらいでした。ブラナタワーは、中央アジア建築の名作であるウズゲン、カリャイ、そして一番優美なウズベクのワブケント・ミナレットと同列に並ぶものです。

 

5.敬意の証   P・セミョーノブ・テンシャンスキーの記念像(イシククリ州)

ビシケクからイシククリに向かって行くと、イシククリへの入口北側に「偉大なP.P.セミョーノブ・テンシャンスキー探検家に。キルギス民族より1982年」という銘がある銅像があります。記念像は、小高く盛土した上に建てられて、盛土の前面にイシククリ湖の外形が彫られたプレートがあります。プレートの両側にある階段を上がっていくと、記念像に着きます。

盛土の左右にある芝生には、昔のチュルク人が石から作った彫刻がいくつか置いてあります。記念像は、キルギス製の鞍を乗せた馬の手綱を持っている探検家の姿となっています。制作者V.E.ゴレボイは、帽子を手に持ち湖の美しさに見とれている学者の姿で造りました。設計者N.A.ソコロブは、記念像を軽快で活動的な配置にしました。

P.P.セミョーノブ・テンシャンスキー(1827~1914)は、すぐれたロシアの探検家であり、また植物学者、昆虫学者、社会的な活動家、ペテルブルグ科学アカデミーのロシア地理協会やほかのヨーロッパ科学協会の名誉会員でした。彼は中央アジアの研究に大きな貢献をしました。1856~57年、彼は天山に旅行して探検と研究を始めました。彼は初めて湖を測量して、湖の成立について予想を述べ、またイシククリの歴史と考古学上の遺跡に着いて記述しました。テンシャンスキーの科学遺産は、ロシアばかりでなく世界の文化として時代に残っています。

彼は、ロシアとキルギスとの政治分野にも有効な結果をもたらしました。イシククリのキルギス人はロシアの忠実な同胞になったのです。彼は、ロシア民族からキルギス民族へ初めての公使として、また偉大な学者として優れた足跡を残しました。

 

6.描かれた岩の野外博物館    (チョルポン・アタ市)(イシククリ州)

チョルポン・アタの郊外にたくさんのユニークな岩が置かれています。絵を描かれた岩は、絵の野外博物館となっています。絵は全部で900くらいあります。

石を撒き散らした広い草地へ道路が敷かれ、青い湖を背景にして、黒い岩は様々な色彩できらきら輝いています。こんなにたくさんの岩について、どうして集まっているか説明することができません。学者たちは、この謎を解決しなければならないでしょう。絵は主として、角を持った山羊が背を折り曲げてサーベルのような形に、また渦巻き線のように描かれています。ある岩には動物をいけにえにしているところが、他の岩にはラクダを引いた隊商たちの姿、馬に乗って獲物を追跡している姿や競争の様子がはっきり見えます。

別の岩では、2、3人が大きな鹿を狩りたてています。1人はもう弓を張って、他の人(畜産業の人かもしれない)の近くに犬がいます。別の岩には、山羊の後ろに追いついた狼の姿があります。古代の芸術家たちが描いた絵の的確さが、現在の見物人を驚かせます。書き入れた技法には、線刻と点刻の2種類があります。大部分の絵がスキタイ・シベリア動物的な姿で描かれました。

考古学者たちが、野外博物館の区域に2,3の塚を発掘しました。掘り出したものによって、大部分の絵がサーキ・ウスニという時代、紀元前千年から紀元1世紀に画かれたと鑑定しました。ここは、当時の原住民の青銅器時代から中世期までの生活と神話を反映した崇拝の聖所であったと推測されています。

チョルポン・アタ以外に、サイマル・タシ、アクチュンクル岩屋、また他の所にも多くの遺跡が残っています。チョルポン・アタの野外博物館は、中央アジアで一番多い集積地のひとつとなっています。しかし、この遺跡は損失の危険があります。自然現象によって、ある石の部分が割れて落ちたりして、多くの絵がもうはっきり分からなくなりました。でも多くの場合は、古代文化の遺跡に無知な人々が自分のサインや絵を画いて壊しているのです。

 

 

 

観光案内 チーグ町、サンタシ、カラコル

キルギスの昔話、伝説    (出典は「キルギス百科事典」 2000年頃訳)

観光歴史その1

1.チーグ   (湖底に沈んだサーク族、ウスニ族の町)

今、イシククリ湖があるところには、何世紀も前、村や町がありました。町の中をキャラバン隊が通ったり、立派な宮殿やかんがい施設を造られたり、市場ががやがや賑わったり、手工業者が働いたりしていました。しかし、やがてその村や町が湖に沈みました。沈んだ遺跡の秘密は、昔から学者の興味を引いてきました。

イシククリ湖に沈んだ町で、一番古い町が「チーグ」です(中国語では、チーグチェン)。チーグ、そこは中央アジアの東から来たウスニ族の最高位指導者がいる拠点でした。紀元前2000年、ウスニ族が天山の谷を侵略したとき、この指導者はサーク族の拠点を奪いました。そのとき、チーグ町を中国の旅行者、ジャン・シャンが訪れ、天山の民族とハン国の間に交流が始まりました。

ペスチャンノエ村の隣にある入り江の底に、サリブルン町の遺跡が見つかりました。残されていた材料によって、ここに一箇所だけ居住地があったことがわかりました。それは「チーグ」だったのです。学者は、沈んだサリブルン町はチーグ町であるという仮説を立てています。

残念ながら、古代のウスニ族の拠点を散歩できるのは、スキンダイバーたちだけですが、入り江の南方では流されてきた古代の焼き物を多く見つけることができます。

 

2.サン・タシ    (塚の謎)

昔からサン・タシ峠は、クンゲイアラトーからテルスキーアラトーの北裾野を越える分かれ道として使われてきました。高山の谷間には、サーク族の古墳や石で造った塚などがたくさんあります。古墳の直径は60メートルにもなります。

特に、二つ隣り合わせにある古墳が注目に値します。(小さい方は考古学者が発掘して、もうありません。)この有名なサン・タシの古墳について、「鉄のちんば」と呼ばれたモンゴルのタミルランがインドへ出征したことに合わせた伝説があります。タミルランは、出征の前に兵士が小山に一つ石を置いて、帰った時、一つ石を隣の小山に置くように命令しました。二つの塚は、死んだ兵士のために特異な記念物になりました。この伝説にちなんで、サン・タシ(数えた石)と呼ばれます。

学者たちは、この古墳を古代の遊牧民が作ったと推測していました。しかし、発掘して円形テント型の石の施設を発見した時、学者たちは驚きました。遊牧のサーク族時代のものではなく、中世期のチムール時代に属していたのです。

国内に1ヶ所だけあるこの建造物が造られた目的は、まだわかりません。発掘調査の結果を待たなければなりません。

 

 

3.N・M・プレジワルスキーの記念碑   (カラコル市)

1869年にカラコル市が設立され、町の中心にあるカラコル大学に記念碑ができました。この時代には、カラコルはロシア人やいろいろな国の人間が天山と中央アジアへ探検に行く基地でした。

1885~88年に、偉大なロシアの探検家で中央アジア研究者のN.M.プレジワルスキー滞在しました。彼は、サンクトペテルブルグから5回の探検に来て、腸チフスに感染してカラコルで死んでしまいました。プレジワルスキーの記念像は、カラコル空港の近くにあります。しかし主な記念建築物は、カラコル川が湖に入るところにある彼の墓の近くにあります。

記念碑は、岩の上部に知恵と優しさのシンボルである鷲がいる構図です。鷲のくちばしには、科学の平和的な目的のシンボルであるオリーブの枝、そして、爪には折った中央アジアの地図をつかんでいます。

岩の表面には、青銅の十字架がしっかり取り付けられました。その下には、ロシア科学アカデミーから彼の功績に贈られたメダルを大きく複製したものがつけてあります。下部には、「ニコライ・ミハイロビチ・プレジワルスキー 最初の中央アジアの研究者、1839年3月31日生まれ、1888年10月20日死亡」と書いた銘があります。記念碑は中央アジアで最初のモニュメントです。

1957年4月29日には、記念館を造ることが決まりました。墓と記念碑の近くに記念館ができました。ここには、研究の成果物や彼の遺品が展示してあります。

 

4.ドゥンガン人のモスク    (カラコル市)

カラコルに立派な記念的建築物のモスクがあります。モスクの建築家たちは、ドゥンガン人伝統的な木造建築の経験と技術を使って造りました。モスクを彫刻家、レンガ職人、屋根屋など30人以上の職人で造りました。

1907年に建築家が、天山もみ、カラガチ(コブニレ)、ポプラ、クルミなどの材料の用意を始めました。準備に3年間かけ、1910年にモスクの骨組みを組み立てました。大きさは24.8m*23mで、中央アジアのモスクと比べるとそれ程大きくありません。

モスクは、東側と西側に2列の柱がある長方形をしています。南側と北側に窓を作って、西側にはありません。そこには、神に祈る人たちが顔を向けるからです。外部に彫刻した模様には、民族の神話にある怪物やフェニックス、ライオンを装飾に使っています。民族の伝説に従って、彼らは建物を災害と悪魔から守っています。

建物の色、材料、屋根の色は、厳しく決められました。木造部分と柱が赤色、壁が濃紅色、屋根は緑色、さらに、彫刻した模様には、ぶどう、ざくろ、梨、桃など植物の模様は緑色、神話の動物は黄色の二色で塗りました。

神話によると、それぞれの色には意味があります。赤は災害と悪魔から守り、黄色は富と偉大さを表し、緑色は幸福と幸運を持ってくるのです。

 

5.健康に良いアクスウ温泉   (カラコル市)

カラコル町から15km、天山のもみやりんごや落葉樹が生える谷間に景色のいい温泉があります。イシククリ湖東部の人々は、昔からアクスウ温泉の効能についてよく知っています。住民は温泉を崇拝し、アルマ・アラシャン(リンゴの効能がある温泉)と呼んでいたことから聖所と言われています。

1857年6月9日から10日にかけ、ロシアの探検家P.P.セミョノフ・テンシャンスキーが訪れ、後に「回想録」に書いています。その後、プレジバルスキー町が建設されたので、イシククリに来た多くの研究者や旅行者が温泉を訪れました。

19世紀の終わりに、温泉が中央アジアや西シベリアにも有名になったとき、地区の行政は市民や訪れる人々のために木造の建物を建てました。近所のキルギス人はユルタに住んで、ここを訪れる保養客に肉やクムス(馬乳酒)を提供していました。

 

観光案内 イシククリ湖の歴史、伝説、宝物

イシククリ湖の伝説      (出典不明 伝説を集めた小冊子だったような?)

(2000年頃訳2018年4月一部修正)

1.イシククリ湖は何才ですか。

昔、何百万年前ここにはテチス海があった。テチス海は、地中海、黒海、カスピ海などほとんど中央アジアの全部を含んだ。それを示すように今の陸地には、水成岩を見ることができる。

1億年の間に、ここには何回も山ができ、また崩れたり、できたくぼみが水で満ちたり海になったりした。最後に、およそ三千万年前に波が轟々と鳴って、海の底がだんだん上がり始めた。その結果、現在の天山山脈が現れた。

しかし活動は止まらないで、山が次々にできた。氷河期には氷河が現れて、また溶けてくぼみが湖になったりした。そのときイシククリ湖ができた。「若い」湖で一千万才です。暖かくなってから植物や動物が現れた。

 

2.イシククリ湖の伝説

昔々、古代の町があった。険しい山の上に宮殿が建っていた。それは、富だけでなく冷酷さで有名な老年の強靭なハーン(汗)のものであった。一日も経たないうちに、誰かが彼の気まぐれの犠牲になっていた。

彼は愛情も恋愛も知らなかった。でもある日、貧乏な遊牧民の家族にとてもきれいな娘がいるという噂を聞いて、彼のものにすると決めた。たくさんの名騎手が彼女のために決闘で命を捧げた。しかし彼女は、結婚の申し込みにいつも他の人を愛していると答えた。

誰を愛しているかは誰にも分からなかったし、彼女にもはっきり分からなかった。ある朝、太陽が山頂に光を指したとき、白い馬に乗ったハンサムな騎手が来て彼女といっしょに空高く舞い上がったことだけ覚えている。別れる時、彼は彼女の指に指輪をはめて、「すぐに帰ってきます。決して指輪を外さないでいつも持っていたら、どんな不幸にも会わないでしょう。」と言った。

それで、ハーンの使者が贈物を持ってきてハーンとの結婚を申し込んだとき、彼女は贈物をどけて「他に好きな人がいます。彼以外の誰の妻にもなりません。」と答えた。そう言ってから彼女は、騎手に会うようにこっそり山に行った。そのとき指輪がなくなっているのに気が付いた。泣いて家に帰ってくると、家の前に武装した兵隊がいて彼女を取り囲んだ。すぐにつかまえられて、暗い谷間に見えなくなった。目かくしを取った時、ハーンの所に来たとわかった。

ハーンは、彼女を今までに無いほど豪華なもので囲んだが、彼女はあくまで厳然として立っていた。それでハーンは、力ずくで娘に飛びついたが彼女はすぐ開いている窓の前に立った。「決してあなたのものにならない。」と言って窓から飛び降りた。その時、壁が崩れてハーンの宮殿が沈んでいった。地面から水がどっと流れ出て、廃墟となった宮殿が水の下になった後も広い谷を浸すまで流れ出ていた。

 

3.イシククリの宝物

ある日、スパイが恐ろしい知らせを持って戻って来た。信じられないほど暗い噂がすぐに広まった。何万人ものモンゴル騎兵がすべてを破壊しながらセミレチェに向かっている、という。チンギスハンのスパイがそういう噂を言って、町の統括者を脅かしたのだ。

カラハニッド国の首都バラサグンにもパニックが起こった。ブラナの塔に警備兵が昼でも夜でも目が痛くなるほどじっと遠くを見ていた。町の近くにあるネオストリアンの居留地―イスラム教徒の世界にあるキリスト教の土地―では、たくさんの富を守るためにこっそり隊商を備え始めた。

教会の財産と宝のために200頭のらくだに金と銀を積んだ。隊商は秘密のうちに天山の中心に向かって、東南に出発した。カラハニッドの統率者は戦わずにバラサグン町をチンギスハンの司令官に明け渡した。それでモンゴル人は、バラサグンの町を「友好の町」と呼んだ。町の周りはモンゴルの騎兵が踏み荒らして、農業の畑地が家畜の放牧場になった。

隊商はイシククリ湖まで来て、北の湖岸を行った。休みが短いので案内者は無口だった。やがて、北の岸が南の岸と交わるチップ町の入り口で恐ろしい知らせがきた。「モンゴル隊が追跡してきている」という。前方には待ち伏せ、後方には追跡である。どうしたらよいだろうか。選択の道はなかった。

修道僧たちは財宝を隠すとことにした。クルメンテ川に戻ってきて、そこに古代の塚の列―昔の遊牧民の強大な統率者の墓・目につかなくて確かな目標物―を見つけた。案内者が秘密の岩屋を見つけたので、その奥を広げて金や銀の包みを投げ込んだ。入り口に岩を置き、2メートルの土で埋めた。僧は、用が無くなった案内者と人夫を殺し、また2メートルの土で埋めた。

岩屋の入り口を隠して、大きな岩の上にネオストリン文字を書いた。秘密を守って誰にもキリストの宝を明かさないと誓い合った。やがて石は神聖になり、何年経っても遠方から参拝者が来るようになった。秘密は漏れなかったので宝は残った。

 

4.水底のダルハン町(イシククリ湖)

現在のダルハン村の北方の荒れ果てた湖畔に中世期の住居地があります。厚い砂の層が湖畔からツェルガナスという低木やいばらのしげみ、泉、沼地まで伸びています。しかし、湖畔が荒れ果てたのは見かけばかりのことで、時々波はいろいろな考古学的な物を陸地に運びます。

湖の底から掘り出した物のなかにサーク時代、ウスニ時代(紀元前1世紀)のものや、もっと多くは中世期時代のものを発見します。コイン、石臼や古代の金属製品などが拾い上げられます。ダルハン村に住んでいるトクトバイ・モオリエフが、2本の短刀、茶わん、サーク時代の大きな青銅釜の一部を見つけました。この掘り出したものが、イシククリ古代遊牧民の供物の用品であったのでしょう。

ダルハン遺跡は、大事な地理的位置にあります。ズウキン峠をテルスキー・アラトーに一番便利に越える通行を管轄していました。(未完)

 

ビシケク市について

2018年4月配信

ビシケク市について          (2000年頃作成、未完)

1.概要   2.自然   3.歴史

 

1.概要

キルギス共和国の首都ビシケク市は、キルギス山脈の北 チュイ盆地にあります。標高は700~900メートルで、面積は127.29平方キロ、人口は67万2千人(1989年)です。

市は、レーニン、アクチャブリ(10月)、ペルバマーイ(5月1日)、スベルトロバの4つの行政区からなっています。

市の郊外には、国際空港のマナス空港があります。

市内には、大統領府を始め博物館4、劇場4、図書館5、市場4箇所があります。

 

2.自然

年平均気温は10.2度C、年降水量は409ミリ、年平均湿度は60パーセントです。

月平均気温は1月が-4.6度Cで最も低く、7月が24.5度Cで最も高くなっています。

1930年12月には最低気温-38度C、1983年7月には最高気温43度Cを記録しました。

年降水量の53パーセントが3月から6月にかけて降ります。1930年8月30日には、1日の降水量70ミリを記録しました。

 

 

3.歴史

都市計画と建築様式(1984年発行 フルンゼ百科事典 より)

ビシケクの区域と周辺には、6~14世紀のものとみられる都市遺跡がある。これらは、粘土などをこねて作った壁または強固に盛土した壁に囲まれた居住地であった。住民の住居は生レンガで作られ、天井はれんがで丸型、または木で平らに作られていた。遊牧民族の住居は、移動式丸型テント(ユルタ)だった。1825年にコウカンド国のピシペクという要塞ができて、西の防壁の近くに次第に粘土壁の住居ができた。

1878年に都市建設の最初の計画が作成され、街区の1区画を1~1.5ヘクタールにすることになった。街の広場、公園、並木道、軍事病院など、またいろいろな役所のために場所が決められた。東のはずれは、回教寺院、バザール、干草用地、刑務所用地、兵舎に割り当てられた。都心にニコライ教会と練兵所が配置された。

住居は、粘土などをこねたり日干しレンガで作った一階建ての家がほとんどだった。少し経って二階建てレンガの家が現れた。住居はステップ地方にある代表的なもので、簡単な作り方だった。

ソビエト政権の最初から都市計画と建築様式の新しい芸術的手段の探求が始まった。都市建設に際しての選択で、道路を緯度子午線に合わせた。20年代に生産のためのいくつもの建物、たとえば皮革やレンガ工場、インテルゲルポ協同組合などが建てられた。

20年代の終りには、都市建設での興味深いできごととして円形街区(今日の労働者街区)の出現があった。平地に放射状の輪を造り、田舎の風景を取り入れて都市生活の快適さを創出する試みをした。

最初の住宅建設は、同名の産業協同組合にちなんで「インテルゲリポ」地区となった。個々の住宅規模は大きな規格となった。

最初の大規模な建築は、キルギス自治州人民会議の建物(今の歴史博物館)(1927年建 設計А.П.ゼニコフ)だった。

20~30年代に共産主義大学、国立銀行(今の5月1日支店)、女性教員学校、鉄道、フルンゼ駅、印刷所、音楽学校、歴史専門学校、アラト-映画館などが建てられた。

10月革命の第19回記念日に、州庁舎(今のキルギス最高会議幹部会の建物。36年建 設計А.Ю.ドゥボフ)が建てられた。

30年代の建築の特徴で、柱列、柱廊、大きなアーチ型の壁抜き(医科大学 39年建 設計Ф.П.ステブリン ジルジンスキー大通り・トクトグラ通り角のアパート 設計C.X.サークヤン、 П.П.イワノフ、А.М.アリバンスキー)、キルギス民族模様の使用(キルギス最高会議幹部会の建物ホール入口 構成Б .ウィツ、Л.メサロフ)が現れた。

30年代は、20年代に始まった広場や通り、大規模な産業用建物などの一連の整備が続けられた。37年に初めて都市の地形図、基本的なフルンゼ総合計画ができて、戦前に首都の改良が始まった。住民のために防湿、衛生関係に最も注意し、都市内の個々の地区の関係が最良となるように、また全体配置、文化施設や産業、公共施設の配置を考慮した。

市内では、公園(Ю.フチカ記念公園 36年建)、小公園(中央地区 38年建)、庭園、新しい緑地帯、貯水池が起工した。

1940年、新しい建築様式で最初の建築がされた。パビリオン・ミネラルウオーター「アク・スー」近接して映画館「アラ・トー」(設計 A.M.アリバスキー、構成 O.M.マヌイロバ)。40年代最初の銅像(パンフィーロフ.И.В.及び Г.В.レーニン像 48年建 製作Г.В.ニロダ 設計  В.В.ベリュジスキー)が建てられた。

50年代は特に早いテンポで、学校、幼稚園、幼児園、職業学校、大学、医療、行政、文化生活などの施設が施工された。59年には複合施設 キルギス科学アカデミーと同盟会館が、「    」は57年に、51年には総合建築物のソビエト広場が建設された。55年にはオペラ・バレー劇場、そのあと同地区の建築物 Н.Г.チェルヌシェスキー記念国立図書館(62年)、ホテル・キルギスタン(71年)造形美術館(74年)、アイチュルク・デパート(74年)、トクトグル像が設置された。

50年代の公共施設は、ソビエト商業技術学校、空港、映画館“10月”、農業展示館(ВДНХキルギス)がある。プール、噴水、小公園などの小規模な建築も多く行われた。また、規格に沿った2階建て、3階建て住宅の大量建築が始まった。

60年に市で最初の5階建て住宅が、ビリンスキー通り(今のマナス通り)とレーニン大通り(今のチュイ大通り)の角に建てられた。住宅には、回廊、バルコニー、テラスが自然環境によく調和するように設けられた。60年代には商業用の建築がかなり速く進んで、東洋と西洋の工業中心地ができた。

60年代半ば過ぎから、その時代の要請にかなう建物が建てられた。工業研究所と研究施設、たとえばキルギス国立放送協会のスタジオ制御室、ラジオ会館、キルギス科学アカデミーの建物など。67年にキルギス共産党中央委員会とソ連キルギス共和国閣僚会議がある建物が建てられた(今の国会議事堂)。60年代の建築で、フルンゼ博物館(67年)が特別な位置を占めている。

70年に町の中間的な建築図案と基本計画が決定された後、首都の美的な建築物となる文化的な建物が建てられた。たとえば、キルギス演劇場(70年)、ロシア演劇場(71年)、レストラン「セイイル」(73年、設計A.И.イサエフ)、政治教育会館(74年)、レーニン・スポーツ会館(今のコジョマクール・スポーツ会館)、国民生産物展覧会場の主要な展示館・ВДНХ(74年)、生活サービスサンタ-(75年、設計 Ю.П.カリフ、Б.モルドバエフ、К.サルバノフ)、ホテル「ピシペク」(75年)、サーカス場(76年)、実験的な中学校の5番学校(80年)、国立音楽堂(80年)、マナス空港(81年)、西部バスターミナル(81年)、子供スポーツセンターのプール(83年、設計 К.サルバノフ、В.Д.ホフトほか)など。

心臓病大学及び付属病院や厚生省の主要施設である4番病院など、保健施設の建築に多くの注意が払われた。

70年代から社会文化施設と併せてアパートが建てられ始めた。たとえば、南門団地(今の10番団地)、ソビエト通りとボコンバエバ通り、プラウダ通りとオゴンバエフ通り、トクトグウル通りとスベルトロブ通りなどの交差点のアパートである。これらの建物は、気候の特徴を考慮し民族装飾を使用して建てられた。ソビエト通り、ビリンスカヤ通り、レーニン通り、マルクス通り、ミラ通りの景観がとてもきれいになった。

60年代半ばから20年間の建築は、キルギス国立建築計画研究所で作られた計画で行われた。たとえば、105シリーズの5階と9階建てのパネル式住宅(設計 Е.Г.ピサルスコイ、В.Е.セドフ、技師 А.И.モズゴボイなど)と106シリーズの9階建て高層パネル工法のアパート(設計 Е.Г.ピサルスコイ、技師 Е.Д.スヌチコフほか)、れんが造りの98シリーズのアパートである。

73年に9階建ての最初のアパートがビリンスキー通りとレーニン通りの交差点に建てられた。82年に「バイチェチェケイ」という店がある12階建ての最初のアパートが、ミラ大通りに建てられた。ジュキエバ・プドフキナ通りに大型パネルを使った105シリーズ最初の16階建てのアパートが建てられた。高層建築では耐震設計に大きな注意を払った。

79年にビシケク市中心部の詳細設計が決定され、この設計図でレーニン中央博物館の分館(今の歴史博物館)、レーニン図書館(今の国立図書館)、市役所、通信会館、コルホーズの市場、商業と生活文化施設、学校とその他(通り、広場、噴水、銅像、大小の公園)が建築された。

 

 

年代表           主なできごと

紀元前5千年~4千年    市の区域内に最初の生活跡があった(アラミジン住居跡)

紀元前7世紀~紀元5世紀  サコフ族とウスニ族の結合

5世紀~14世紀      ピシペク、クズルアスケル、チョキョルジョシュほかに住民の住居跡

15世紀~19世紀初め   キルギス民族は、現在の市区域あたりに遊牧していた。

1825年         コウカンド国のピシペク要塞の設置

1845~47年      カザフ汗ケネンモスカルモブの攻撃にキルギス民族が敗北した。

1845年         チュイ盆地のキルギス民族がロシア政権に対して、ロシア領となることを願い出た。

1860年8~9月     ロシア軍がチュイのキルギス民族協力のもとに、ピシペク要塞を攻撃。

1862年10月24日   ピシペク要塞を再度攻撃した。

1863年         キルギス民族がロシア国の傘下に入った。

1864年         コウカンド国が崩壊した。ピシペク要塞にロシア軍の前哨ができた。

1867年         トクマク郡の設置とアラミジン、ピシペク入植地の設置

1876年 4月26日~  トクマク郡役所がピシペクに移転した。ピシペクは町になりピシペク郡     5月13日   の中心となった。

1878年 8月31日   ピシケク町の建設計画の決定

1879年10月31日   ロシア正教の教育学校の開校式。最初の教育施設。

1881年         にれの木の植林

1883年         ドゥンガン人の大規模な村の形成があった。

1885年 1月21日   M.B.フルンゼが生まれた。

1885年         ロシアの探検家プルジバルスキーがピシペクを訪れた。(最初の訪問)

1889年         キルギス造園学校の開校式(1894年から農業学校)

1895年         無料公共図書館の開館

1897年        ロシア帝国の最初の国勢調査で、ピシペクの人口は6615人だった。

1898年        ドボブイ庭園の基礎を据えた。

1899年        最初の薬屋の開店

1903年12月初め   町に最初の非合法的な反政府宣伝ビラが現れた。

1905年8月6日~   民衆集会があった。

11月8日

1905年11月16日  ピシペク有線電信会社社員のストライキがあった。

1905年~1912年  社会民主主義サークルの活動があった。

1906年        家畜の定期市場が初めて開催された。

1907年 5月     入植した農民のために診療所が開所した。

1907年        移動上映映画が現れた。

1908年        ピシペクにロシア式学校が開設した。

1910年~17年    チュー川にかんがい施設の建設が行なわれた。

1911年        「メテオル」と「マルズ」映画館の開館

1912年        ピシペク通りに最初の自動車が現れた。

1912年 5月     男性用体育館の開設

1913年 3月31日

 

 

 

ビシケクの施設等

ビシケクの施設等       2018年4月配信

(出典は「フルンゼ百科事典」1984年刊によります。訳2000年頃 未完)

銅像・彫刻群「マナス」

「マナス」と名づけられた銅像・彫刻群は、1981年に国立コンサートホール(フィラルモーニア)前の広場に造られました。銅像のひとつは、キルギス民族の叙事詩にある「マナス」という英雄の姿を表しています。銅像は、伝統的な英雄マナスと彼の妻カニケイ、そしてマナスの助言者バカイです。これらの銅像の近くには、叙事詩の伝承者の胸像が置かれています。それらは、カララリエバ・サヤクバイ、オロズバコバ・サグンバイ、ジャプ・トゥヌベカ、バルク・ナイマンバイの4人です。

ビシケク 音楽ホール前のマナス像19年6月
ビシケク 音楽ホール前のマナス像19年6月

銅像・彫刻群の中心は、馬に乗って竜を従えているマナスの像です。像の高さは6.3m、竜の長さは13mです。台座は鉄筋で、外装は花崗岩、高さは14.7mです。カニケイの銅像は高さ4.5m、台座3.5m、バカイは高さ4.5m、台座3.5mです。三つの銅像は噴水の中央にあり、噴水の前は花壇になっています。

叙事詩の伝承者たちの胸像は赤い花崗岩で作られ、花壇の西と東にあります。高さは、ほぼ3mです。

ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月
ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月

銅像・彫刻群の製作は、彫刻はサドゥコブ、設計はペチェンキンが行ないました。

国立オペラ・バレー劇場

1936年に建てられたときは、キルギス音楽ドラマ劇場という名称でした。41年に音楽劇場、42年にキルギス国立オペラ・バレー劇場、59年にアカデミーオペラ・バレー劇場、78年にA・マルドゥバエバエバ記念キルギス国立オペラ・バレー劇場と名称を変えています。

ビシケク オペラ・バレー劇場 19年5月
ビシケク オペラ・バレー劇場 19年5月

オペラの初演は、39年の「アイチュリョク」でした。

現在の建物は、1955年に開館しました。設計は、ラブレンコというロシア人でした。

 

アイチュリュク・デパート(ツム・デパート)

1974年に開館、当初1階は家庭用品、2階は婦人用品、3階は男性用品だった。売り場面積6763平方メートル、1982年の売上は88.4百万ルーブル。5階建ての建物は鉄筋コンクリート造。

ビシケク ツムデパート19年6月
ビシケク ツムデパート19年6月

トクトグル・サトルガノフ記念国立音楽堂(フィラルモーニア)

建物は、キルギス国立劇場の民族楽器オーケストラに基づいて、1936年に創設されました。最初の音楽指導者はB.フェレで、音楽堂には1939年からトクトグル・サトルガノフ記念という名称をつけました。1939年に民族楽器オーケストラ、キルギス民族舞踊アンサンブル、ロシア民族音楽アンサンブル、ドゥンガン民族アンサンブル、吹奏楽団が活動し始めました。

これらのアンサンブルは、日本をはじめカナダ、フランス、アメリカ、スエーデンなどに公演に行きました。1939年には、労働赤旗勲章が音楽堂に授与されました。

今の建物は、1980年にペチョンキンの設計で造られ、中には2つのホールがあります。大きいホールは1200席、小さい方は300席です。コンサートは、主にこの音楽堂とスポーツ会館で開催されます。(上記写真 マナス像後方の建物がフィラルモ-ニア)

キルギス共和国について

キルギス共和国について  (ウィキペディアより)

キルギス共和国(キルギスきょうわこく)、通称キルギスは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦共和制国家である。首都はビシュケク(旧名フルンゼ)。かつての正式国名はキルギスタンであり、改称以降も別称として公式に認められている。

内陸国で、北から時計回りにカザフスタン中華人民共和国タジキスタンウズベキスタンと国境を接する。西部のバトケン州内にはタジキスタンとウズベキスタンの飛び地がある(「バトケン州#飛地」参照)。ソビエト連邦から独立したウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンとともに中央アジアを形成し、独立国家共同体 (CIS) 加盟国である。旧ソ連を構成していた中央アジア5カ国で「最も民主的」といわれるキルギスでは、2005年と2010年に野党勝利による政変があった。しかし、キルギスの大統領たちは政権交代による第一野党勝利後にそれぞれ国外に亡命している

国名[編集]

正式名称はキルギス語では Кыргыз Республикасы(Kyrgyz Respublikasy; クルグズ・レスプブリカス)、ロシア語では Киргизская Республика(Kyrgyzskaia Respublika; キルギースカヤ・リスプーブリカ)。別称は Кыргызстан(Kyrgyzstan; クルグズスタン)。

1991年の独立時にキルギス語の国名を Кыргызстан РеспубликасыKyrgyzstan Respublikasy; クルグズスタン・レスプブリカス)としたが、1993年に憲法を改正して正式国名を現行の Кыргыз Республикасы に改めた。ただし、国名変更以降も旧称 Кыргызстан が別称として公式に認められている。

公式の英語表記は Kyrgyz Republic。別称 Kyrgyzstan。 国民・形容詞はKyrgyztani。

日本語の表記はキルギス共和国[3]通称キルギス

クルグズ(キルギス)の語源は「кырк(クルク)」が40の意味で、40の民族を指し、また中国人にかつて「гунны(グンヌィ、匈奴)」と呼ばれていた背景から、それらを合わせてクルグズとなったと言われている。 ちなみに、テュルク系言語で40を意味する「クゥルク」に、娘や女の子を意味する「クゥズ」を合わせた「クゥルク・クゥズ」は、“40人の娘”という意味になり、中央アジアに広く伝えられるアマゾネス伝承との関連をうかがわせる。したがって、「40の民族」というよりも、「40の部族」ないし「40の氏族」という意味のほうが適切である。

日本語名のキルギスは、ロシア語表記の「Киргиз」に由来する。

独立時に、キルギスのロシア語表記・英語表記は、キルギス語の自称に基づいた КыргызKyrgyz に改められたが、日本語ではそのままキルギスと呼び続け、正式国名の日本語名はキルギスタン共和国と表記された。その後のキルギス共和国への国名変更を経て、依然キルギスと通称されている。タジキスタンやカザフスタンなどにみられる「~スタン」とは、ペルシア語で「~が多い場所」を意味する言葉である。詳しくはスタンを参照。

本項では「キルギス」の国名を使用するが、中央アジアの研究者には正確な発音に近い「クルグズ」と表記すべき、との声もある。

 

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国際関係[編集]

ロシアと密接な関係を保ちつつ、中国や欧米、日本などともバランス外交を展開している。ロシア主導のユーラシア経済連合集団安全保障条約に加盟している[3]

上海協力機構の加盟国でもあり、中国はキルギスを「一帯一路」の対象国を一つに位置付けている[5]。 一方で、経済の過度な対中依存や中国人の流入などへの不満から反中デモも起きている[6]

日本は1991年12月28日に国家承認し、翌1992年1月26日に外交関係を樹立。大使館は日本が2003年1月27日に、キルギスが翌2004年4月にそれぞれ置いた。日本はキルギスに政府開発援助(ODA)を提供し、ビシュケクに「キルギス日本人材開発センター」を開設した[3]

地理[編集]

キルギスの衛星写真

キルギスの地図

国土全体の40%が標高3000mを超える山国。国土は東西に長く、中国との国境には天山山脈が延びる。南に位置するタジキスタンに向かってパミール高原が広がる。

国土の中央など東西に山脈が走り、国土を数多くの峡谷に分断している。最高峰は、中国国境にそびえるポベティ山(Pobeda または Jengish もしくは 勝利峰、7439m)、ついでハン・テングリKhan-Tängri または Kan-Too、6995m)である。4000m級の峰は珍しくない。各都市の標高は首都ビシュケクが800 m、フェルガナ盆地に位置するオシュが963 m、イシク湖畔のバルイクチが1610 m、カラコルが1745 mとなっており、ナルイン州の州都ナルインは2044 m、中国やタジキスタンとの国境に近い南部のサリタシュは3170 mもの高地に位置している。

主な河川は、シルダリア川支流のナルイン川。主な湖は国内北東部に位置するイシク湖 (Isik-Köl)。東西180km、南北60km、周囲長700kmに及ぶ。湖面の標高は1600m。イシク湖とナルイン川は水系が異なる。

ビシュケクと第2の都市オシュ、中央部のナルインにはソ連共和国時代に大規模な灌漑施設が敷設されているため、綿花を中心とした耕作に向く。これらの灌漑地はシルダリア川、ナルイン川の支流から水を得ている。

気候[編集]

隣国のカザフスタンや中国とは異なり、国内に砂漠は存在せず、この地方の中では気候に恵まれている。人の居住に適した東西に伸びる渓谷部分はケッペンの気候区分では、夏季に雨が少ない温帯地中海性気候 (Cs) に相当する。これは、イタリアローマアメリカ合衆国サンフランシスコと同じ気候区である。山地は亜寒帯湿潤気候 (Df) 、特に高地は高山気候 (H) となる。天山山脈をはさんで南方の中華人民共和国と、テスケイ・アラ・トー山脈英語版を挟んで北方のカザフスタンには、ステップ気候 (BS) と砂漠気候 (BW) が広がる。

実際に降水量を比較すると、天山山脈の100km南方に位置する中国新疆ウイグル自治区喀什(カシ、カシュガル)の年降水量は60mmだが、ビシュケク(北緯43度、標高800m)の降水量は450mmに達する。これはローマやサンフランシスコと同水準である。ビシュケクの平均気温は、1月に-20度、7月に30度で2017年度は7月に最高気温43度、2月に最低気温-31度を記録している。

地方行政区分[編集]

キルギスは7つの州 (oblast) と1つの特別市 (shaar) から成り立つ。州はさらに地方 (raion) に分かれる。地方長官は中央政府が任命する。aiyl okmotu と呼ばれる自治体は、最大で20程度の集落から構成されており、選挙で選ばれた村長のほか議会が設置されている。

主要都市[編集]

経済[編集]

色と面積で示したキルギスの輸出品目

農業および牧畜鉱業が主である。農業は主として輸出品目にもなっている綿花タバコの栽培が活発に行われている。鉱業は水銀アンチモンなど。1997年に採掘がはじまったクムトール鉱山は、世界屈指の金鉱山である。また水銀(ハイダルカン鉱山)は2002年のデータで世界第3位の産出量を誇っている。

ソ連から独立後は、観光産業に早くから注力する。旧ソ連邦でも先駆けてヨーロッパや日本からの観光目的の入国に際し、査証不要を打ち出した。

キルギスは石油製品、天然ガスを輸入し、水力発電による電力、葉タバコ綿を輸出している。ただし、金の輸出が急速に伸びている。2000年における輸入相手国は、ロシア、ウズベキスタン、カザフスタン、アメリカ合衆国、中華人民共和国の順。輸出相手国は、ドイツ、ウズベキスタン、ロシア、中華人民共和国、スイス。キルギスの対日本への貿易は2012年の財務省貿易統計によると輸入57.6億円(機械類及び輸送用機器、自動車、建設用・鉱山用機械)、輸出0.8億円(アルミニウム及び、同合金)となっている。

キルギスに対する2000年における主要援助国(団体)は、日本アジア開発銀行世界銀行アメリカ合衆国国際通貨基金の順である。日本の援助額は5500万米ドル。

通貨はキルギス・ソムである。

交通[編集]

国内にはバス航空網が敷かれている。外国との間にはフラッグキャリアキルギスタン航空が、ビシュケクのマナス国際空港からアジアヨーロッパ各国に就航しているほか、同空港には各国の航空会社が乗り入れている。

鉄道は首都ビシュケクからバルクチまでの国内線の他、ビシュケクとロシアカザフスタンとの間に国際列車が運行されている。

またマルシュルというバスがありそれが国民の足となっている。ビシュケク市内では10ソム(約16円)で乗ることができ、遠距離移動の際には便利となる一面を持つ。タクシーも走っており、日本と比較すると安価で乗ることが出来るため利便性は高めである。

なお、キルギス国内で走行している車両の70%は中古の日本車である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/キルギス#歴史

 

キルギスの歴史

キルギスの歴史   (ウィキペディアより)

キルギス人Кыргыз、Kyrgyz)は、主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族。自称はクルグズ。キルギス共和国の約260万人のほか、周辺の旧ソビエト連邦諸国や中国新疆ウイグル自治区などにも数十万人が住み、中国55少数民族のひとつに数えられる。

イェニセイ・キルギス[編集]

史記』などの古代中国の歴史書に名前が見られる堅昆(けんこん)が、キルギスの名で記録された最初の民族集団と考えられている。彼らは南シベリアイェニセイ川上流域で遊牧生活を行い、匈奴に服属していた。その後、同じ地域にいた民族として記録される契骨(けいこつ)もやはりキルギスの名を記録したものである。当初彼らの風貌は、背が高く、白い肌を持ち、青い目を持つと記されていた。これらのことから、キルギス人の祖先は、コーカソイドであると言われている(ただし、現在のキルギス人とは関連性があるかどうかは不詳である)。

代には黠戛斯(かつかつし)として記録され、はじめ突厥(テュルク)、のち回鶻(ウイグル)に服属していたが、840年に決起してイェニセイ川から南下し、回鶻を滅ぼした。しかし、回鶻に代わってモンゴル高原を支配することはできず、その後もキルギスの名を持つ集団はイェニセイ上流域に留まったようである。13世紀チンギス・カンモンゴル帝国を建てるとこれに服属した。

天山キルギス[編集]

現在のキルギス人は天山山脈、パミール・アライ方面に居住している人々を指す。この天山キルギスと古代にイェニセイ川流域に割拠したイェニセイ・キルギスとの間に関係性があるのかについて、これまでにさまざまな議論がなされてきた。その中でS・アブラムゾンはこの問題について3つの仮説があると指摘した。

  1. ペルンシュタムの説 – イェニセイ・キルギスが10世紀以上の年月、幾波にもわたる民族移動を経て天山地方に移住してきた。
  2. ビチューリン,ワリハノフ,アリストーフ,マルグランの説 – キルギス人は古代からもともと天山地方に住んでいた。
  3. ペトロフの説 – イルティシュ川にいたキマク・キルギス或いは東部キプチャクがイェニセイ・キルギスのアイデンティティーを受け継いでキルギスの名を冠し、天山地方に移住した。

いずれにせよ、天山キルギスはこの後モンゴル帝国の支配下でモンゴル的要素を受け入れ、中央アジアへ進出後のカザフノガイ的要素、ウズベクタジクといった中央アジア的要素を受けついで現在のキルギス人形成に至る。

中央アジアのキルギス人は、17世紀頃、近隣の民族の影響を受けてイスラム教に改宗したが、オイラトの立てたジュンガル帝国に服属した。ジュンガルの崩壊後は、最終的にロシア帝国の支配下に入る。

イェニセイ川流域に残ったキルギス人は、現在のハカス人などの祖先となったと考えられている。

ロシア革命後[編集]

キルギス人が独立した民族として一つの自治体をつくったのは、ロシア革命後の1924年ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の管轄下でカラ・キルギス自治州が置かれたことに始まる。その後、キルギス自治ソビエト社会主義共和国1926年)、キルギス・ソビエト社会主義共和国1936年)がソ連の構成国としてであるが建てられた。

独立[編集]

1991年、ソ連が崩壊すると、キルギス人はキルギスタン共和国を建国し、CIS(独立国家共同体)に参加、国際連合にも加盟し(1992年)、名実ともに独立を果たした。1993年には現在のキルギス共和国に改称する。

キルギスのユルト19世紀後半)

キルギスの遊牧民(19世紀後半)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/キルギス人

https://ja.wikipedia.org/wiki/キルギス#歴史

 

 

キルギス国歌

キルギス国歌

1992年にキルギス共和国の国歌に制定された。

flag

キルギス国歌和訳        2018年11月

キルギス文字はロシア文字を使用していますが(ң )(ө)(ү)の3文字多く、

これらはロシア文字の(Н)(О)(У)として読めば近いです。以下のカタカナは読みで

和文は訳です。                 (当サイトでの作成)

1.Ак мөнгүлүү  акса  зоолор,  талаалар,

アク モングルー アクサ ゾオロル タラアラル

白い氷河に 覆われた 岩山よ、ステップよ

Элибиздздин  жаңы  менен  барабар.

エリビズディン ジャング メネン バラバル

われらは 共に生きてきた 心は 一つになっている

Сансыз  кылым  Ала-Тоосун  мекендеп,

サンスズ クルム アラトースン  メケンデプ

幾世紀も 氷河を抱く 山々のもとに 住み

Сактап   келди  биздин  ата-бабалар.

サクタプ ケルディ ビズディン アタババラル

我らは 先祖の土地を 守って来た

 

(繰り返し)< >

Алгалай  бер  кыргыз  зл,

アルガライ ベル クルグズ エル

さあ 進め キルギス人よ

Азаттыктын  жолурда.

アザットゥクトゥン ジョルンダ

自由な 道だ

өркүндөй  бер,  өсө  бер,

オルクンドイ ベル オソ ベル

さあ 発展させよう、 さあ 変えていこう

өз  тагдырын  колунда. >

オズ タグドゥルン  コルンダ

自ら 昔からの 運命に

 

2.Байыртадан бүткөн  мүнөз  элиме,

バイウルタダン ブトゥコン ムノス エリメ、

昔から 国民に 友達へ 自分の心を

Досторуна  даяр  дилин  берүүгө.

ドストルナ ダヤル ディリン ベルウゴ

与えるような 性質が 入って来た

Бул  ынтымак  эл  бирдигин  ширеип,

ブル ウントゥマク エル ビルディギン シレイプ、

この道徳心は 国民すべてを さらに向上させる

Бейкуттукту  берет  кыргыз  жерине.

ベククットゥクトゥ ベレトゥ クルグズ ジェリネ

そして平穏な 生活を キルギスの 大地に 与える

 

(繰り返し)< >

 

 

 

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キルギス語歌詞[編集]

キリル文字 ローマ字転写
1番
Ак мөңгүлүү аска зоолор, талаалар,
Элибиздин жаны менен барабар.
Сансыз кылым Ала-Тоосун мекендеп,
Сактап келди биздин ата-бабалар.
コーラス
Алгалай бер, кыргыз эл,
Азаттыктын жолунда.
Өркүндөй бер, өсө бер,
Өз тагдырың колунда.
2番
Байыртадан бүткөн мүнөз элиме,
Досторуна даяр дилин берүүгө.
Бул ынтымак эл бирдигин ширетип,
Бейкуттукту берет кыргыз жерине.
(コーラス)
3番
Аткарылып элдин үмүт, тилеги,
Желбиреди эркиндиктин желеги.
Бизге жеткен ата салтын, мурасын,
Ыйык сактап урпактарга берели.
(コーラス)
1番
Aq mɵᶇgylyy asqa zoolor, talaalar,
Eliвizdin çanь menen вaraвar.
Sansьz qьlьm Ala-Toosun mekendep,
Saqtap keldi вizdin ata-вaвalar.
コーラス
Algalaj вer, qьrƣьz el,
Azattьqtьn çolunda.
Ɵrkyndɵj вer, ɵsɵ вer,
Ɵz taƣdьrьᶇ qoluᶇda.
2番
Вajьrtadan вytkɵn mynɵz elime,
Dostoruna dajar dilin вeryygɵ.
Вul ьntьmaq el вirdigin şiretip,
Вejquttuqtu вeret qьrƣьz çerine.
(コーラス)
3番
Atqarьlьp eldin ymyt, tilegi,
Çelвiredi erkindiktin çelegi.
Вizge çetken ata saltьn, murasьn,
Ьjьq saqtap urpaqtarƣa bereli.
(コーラス)