「Kyrgyz Travel」カテゴリーアーカイブ

観光案内 ビシケク、ウスカタ、ブラナ等

キルギスの観光案内      (出典不明 観光小冊子か?)

(2000年頃訳2018年4月一部修正)

観光歴史その2

1.ビシケク市 マナス像周辺

観光のためには、まず共和国の首都ビシケクから旅が始まります。ここには、ガイドブックに載っているたくさんの記念像と名所があるからです。最初に、マナス叙事詩の伝説の英雄に関係がある広場から旅を始めましょう。キルギスでは、1995年にマナス叙事詩の1000年を祝いました。叙事詩に関わる彫像群は、国立音楽堂前の広場にあり、特に厳粛な気持ちにさせてくれます。

ビシケク 音楽ホール前のマナス像19年6月
ビシケク マナス像 中央マナス、左カニケイ、右バカイ  19年6月

彫像の中央には、馬に乗っているマナスの像が、ひときわ高い台の上に立っています。高さは21メートル、材質は銅です。像の作者は、マナスの姿に優しくて公平で勇敢なリーダーについて、民族のイメージを表現しました。彫像家が、マナスに神話の竜が彫ってあるよろいを、威力と偉大さのシンボルとして着せたのは偶然ではないでしょう。

優雅で比ゆ的な像の内容を、横にいるマナスの妻「カニケイ」とマナスの助言者「バカイ」の像が豊かに表現します。すらりとしたカニケイが女性美と高徳のイメージを、バカイが知恵と心優しさを表現しています。

さらに、過去と現在の叙事詩伝承者たちの胸像が、叙事詩の世界へ人を導きます。彼らは、ナイマンバイ・バリコワ、トゥヌベカ・シャピーエワ、サグトゥバイ・オロズバコワ、サヤクバイ・カララエブです。きれいな緑の芝生と対照的な赤い花崗岩で、彼らの容ぼうを彫ってあります。

ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月
ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月 右がサヤクバイ

彫像群の中央には噴水を設置してあり、これらの製作者は、彫像家トルグンバイ・サティコブと建築家ベチョンキンです。

マナス叙事詩が、民族の中に独自の人気を持ちつづけながら、キルギス人の精神生活に同一化しましたから、この像がキルギス民族の文化の部分を形にしています。広大な物語の重要な趣旨は、キルギス民族の結集と独立への希望です。マナス叙事詩世界の民族にある叙事詩の詩歌の中に特別な位置を占めています。この叙事詩の不変の人気は、すばらしい芸術的な内容と詩の適格さ、磨き上げた言葉、比ゆ的性格付けで叙事詩の出来事と社会的生活を目の前にあるように見ることができるためです。

 

2.優しい姿 ウスク・アタの仏陀         (チュイ州)

ビシケク市の南東75キロにあるウスク・アタの谷は、素晴らしい自然で有名です。蒼い山肌で緑の木々の中にある山々、山あいを白い筋になって流れる渓流、何世紀も経たもみや松、草原や花、自然の霊気に満ちた空気、鉱物を含む温泉源―これらは全部、天が与えた恵、母なる自然の豊かな贈物で、昔から人々の心を引きつけています。

中央アジアの民族は、いつも泉を崇め、神聖なものとして崇拝しました。アラシャンという神聖な泉で病を治すために、長い道のりを貿易の隊商や参拝者が越えました。今でもここに温泉地が営業していて、治したい人々が途切れずやってきます。

温泉の手前で、昔の芸術家が石に彫った「母女神」の絵が客を迎えます。ここで旅人たちは、心を世間の奔走から解放し、至福に満ちながらある儀式をしました。幸福を与える仏陀と会う前に、絵を芳香油で磨いたのです。

仏陀の画いてある石は、泉の少し上に位置しています。信者たちは、仏陀の姿が現代の見物人のために分かりにくいと思っています。とはいえ、絵の主要な点は、きれいにはっきりと保たれています。幸福を与える仏陀は、蓮の花の上に座わり無限の輪で囲まれて、何世紀もの過去から人々のまなざしの前に現れます。

ウスカタ 仏陀の像 19年6月
ウスカタ 仏陀の像 19年6月

芸術家は、120*113センチの面に仏陀と今はわずかに見える五つのチベット文字の銘を彫りました。仏陀は仏教の伝統的な蓮の花の上に座っている聖像の姿で表しました。この銘は、伝統的な仏教(ラマ教)の様式として解読されました。このことについては、最初にロシアの東洋学者ベセロフスキが19世紀の終わりに記述しました。

20世紀の初めにH.H.パントゥソフは、仏陀の絵についてキルギスでのいけにえを供える儀式について記述しました。キルギス人がブルハンという神(昔、チュルク人とキルギス人たちは、中央アジアとモンゴルの仏教の神をブルハンと呼びました)を神聖なものとして崇拝して、水の神をアラサンと名づけ、呪術を使ったり家畜をいけにえに供えたりしました。仏陀の絵は8世紀の作だと、近代の研究者たちは確認しています。

イシク・アタの絵は、温泉源にある仏教の聖なる場所を示していると考えることができます。優れた芸術家が神聖な絵を画いたのは、場所の神聖さを強調するばかりではなく、やはり、泉に来る人たちに時代と世代の関係について、そして仏陀の賢明な教えについて思い起こさせるためです。

 

3.ノボゴロド町の遺跡(クラスナレチカ遺跡)     (チュイ州)

昔、この町は「ナベカト」といわれ、「新しい町」という意味でした。中世にいろいろな言語、中国語、アラビア語、ペルシア語で書いた資料が、シルクロードの通路にあったテンシャンの貿易センターのスヤブという大きな町について触れています。町の大きさと要塞の強固さ、用水堀にさらさら音をたてていた水、建築家と画家と手工業者との芸術の全部が外国人を驚かせました。さらにこの町の中で、異なった宗教を信仰した、仏教徒、ゾロアスター教徒、ネオストリアン教徒、マニ教徒、土地の自然崇拝者などの様々な民族であるソグジャ人、トハリ人、チュルク人、シリア人、土地の部族などが、平和と調和の中に暮らしているのはなにより驚かせました。何万人もの人で満ちている多神教の町が人々の住居でした。

クラスナヤレチカ遺跡の見物者は、古代の住宅地の規模と広大な小高い丘、壊れた建物の長い土塁と町の擁壁に驚かされます。廃墟の空間が想像を呼び起こしたり、伝説や神話を思い出させます。これは、科学的な資料と合わせて、古代の町の生活風景を思い起こさせてくれます。今、遺跡となっているところに6世紀に住宅地が造られました。初めここは、貿易の通路に別々にあった強固な城でした。城の周りに手工業品や貿易品を売る店、仕事場、礼拝所がだんだんとできて、建物と財産を守るため町の周りに外壁を造りました。城と二つの地区(シャヒリスタン)とは別に、個人の住宅に壁をめぐらせた地域とで町が拡大していきました。

今も残っている住居を発掘した結果、進んだ手工業の製造品や建築が発見されました。農業と貿易と手工業が経済の基礎でした。

 

4.ブラナ       (チュイ州)

トクマク市の南西12キロのところに、中世にカラハニド(940~1210年)の首都だったバラサグンという町の遺跡があります。ブラナという名前は10~11世紀の回教寺院の塔からきています。

ブラナの塔 19年6月
ブラナの塔 19年6月

キルギスの歴史でカラハニド朝の時代は、封建関係の進展、経済、貿易、政治において最高の時代でした。また、チュルク民族の起源と文化、言語の高まりの重要な段階でありました。まさにその時代に、東洋の古典となる有名な作品を二人のチュルク人が書いていました。バラサグン生まれのユスフ・ハネハジブは、叙事詩「クタドグ・ビリグ(利益を与える知識)」を、そして偉大な学者ムハマド・カツガリは、チュルク語方言の最初の百科辞典「ヂバヌルガット・アタ・チュルク」を書きました。

ユスフ・バラサグニは、ここに1015年または1016年から1070年まで住んでいました。バラサグニは知名な詩人で、教養が高く、ヒューマニストでチュルクの古典文学の創始者として詩歌の世界で有名でした。50歳で叙事詩「クタドグ・ビリグ(利益を与える知識)」を書き、芸術性の高い思想と理想を表しました。

バラサグン町は25平方キロで、中心は四角な要塞と市街地の二つの部分に分かれていました。そこには、手工業者、商人、農民、市民の家がありました。町全体は2列の壁で囲まれ、町を川が流れて、四方八方に水道管と水路が引かれていました。ブラナタワー(ジャミの回教寺院の尖塔)が遺跡の東側にあり、その隣に宮殿と王朝の墓があります。ブラナタワーは、高さ4メートルの六角形の台、高さ18メートルの円柱形の塔、そして地中の強固な四角な土台の三つの部分からなっています。この塔は、地震で元の高さの半分だけ残っています。当初の高さは46メートルぐらいでした。ブラナタワーは、中央アジア建築の名作であるウズゲン、カリャイ、そして一番優美なウズベクのワブケント・ミナレットと同列に並ぶものです。

 

5.敬意の証   P・セミョーノブ・テンシャンスキーの記念像(イシククリ州)

ビシケクからイシククリに向かって行くと、イシククリへの入口北側に「偉大なP.P.セミョーノブ・テンシャンスキー探検家に。キルギス民族より1982年」という銘がある銅像があります。記念像は、小高く盛土した上に建てられて、盛土の前面にイシククリ湖の外形が彫られたプレートがあります。プレートの両側にある階段を上がっていくと、記念像に着きます。

盛土の左右にある芝生には、昔のチュルク人が石から作った彫刻がいくつか置いてあります。記念像は、キルギス製の鞍を乗せた馬の手綱を持っている探検家の姿となっています。制作者V.E.ゴレボイは、帽子を手に持ち湖の美しさに見とれている学者の姿で造りました。設計者N.A.ソコロブは、記念像を軽快で活動的な配置にしました。

P.P.セミョーノブ・テンシャンスキー(1827~1914)は、すぐれたロシアの探検家であり、また植物学者、昆虫学者、社会的な活動家、ペテルブルグ科学アカデミーのロシア地理協会やほかのヨーロッパ科学協会の名誉会員でした。彼は中央アジアの研究に大きな貢献をしました。1856~57年、彼は天山に旅行して探検と研究を始めました。彼は初めて湖を測量して、湖の成立について予想を述べ、またイシククリの歴史と考古学上の遺跡に着いて記述しました。テンシャンスキーの科学遺産は、ロシアばかりでなく世界の文化として時代に残っています。

彼は、ロシアとキルギスとの政治分野にも有効な結果をもたらしました。イシククリのキルギス人はロシアの忠実な同胞になったのです。彼は、ロシア民族からキルギス民族へ初めての公使として、また偉大な学者として優れた足跡を残しました。

 

6.描かれた岩の野外博物館    (チョルポン・アタ市)(イシククリ州)

チョルポン・アタの郊外にたくさんのユニークな岩が置かれています。絵を描かれた岩は、絵の野外博物館となっています。絵は全部で900くらいあります。

石を撒き散らした広い草地へ道路が敷かれ、青い湖を背景にして、黒い岩は様々な色彩できらきら輝いています。こんなにたくさんの岩について、どうして集まっているか説明することができません。学者たちは、この謎を解決しなければならないでしょう。絵は主として、角を持った山羊が背を折り曲げてサーベルのような形に、また渦巻き線のように描かれています。ある岩には動物をいけにえにしているところが、他の岩にはラクダを引いた隊商たちの姿、馬に乗って獲物を追跡している姿や競争の様子がはっきり見えます。

別の岩では、2、3人が大きな鹿を狩りたてています。1人はもう弓を張って、他の人(畜産業の人かもしれない)の近くに犬がいます。別の岩には、山羊の後ろに追いついた狼の姿があります。古代の芸術家たちが描いた絵の的確さが、現在の見物人を驚かせます。書き入れた技法には、線刻と点刻の2種類があります。大部分の絵がスキタイ・シベリア動物的な姿で描かれました。

考古学者たちが、野外博物館の区域に2,3の塚を発掘しました。掘り出したものによって、大部分の絵がサーキ・ウスニという時代、紀元前千年から紀元1世紀に画かれたと鑑定しました。ここは、当時の原住民の青銅器時代から中世期までの生活と神話を反映した崇拝の聖所であったと推測されています。

チョルポン・アタ以外に、サイマル・タシ、アクチュンクル岩屋、また他の所にも多くの遺跡が残っています。チョルポン・アタの野外博物館は、中央アジアで一番多い集積地のひとつとなっています。しかし、この遺跡は損失の危険があります。自然現象によって、ある石の部分が割れて落ちたりして、多くの絵がもうはっきり分からなくなりました。でも多くの場合は、古代文化の遺跡に無知な人々が自分のサインや絵を画いて壊しているのです。

 

 

 

観光案内 チーグ町、サンタシ、カラコル

キルギスの昔話、伝説    (出典は「キルギス百科事典」 2000年頃訳)

観光歴史その1

1.チーグ   (湖底に沈んだサーク族、ウスニ族の町)

今、イシククリ湖があるところには、何世紀も前、村や町がありました。町の中をキャラバン隊が通ったり、立派な宮殿やかんがい施設を造られたり、市場ががやがや賑わったり、手工業者が働いたりしていました。しかし、やがてその村や町が湖に沈みました。沈んだ遺跡の秘密は、昔から学者の興味を引いてきました。

イシククリ湖に沈んだ町で、一番古い町が「チーグ」です(中国語では、チーグチェン)。チーグ、そこは中央アジアの東から来たウスニ族の最高位指導者がいる拠点でした。紀元前2000年、ウスニ族が天山の谷を侵略したとき、この指導者はサーク族の拠点を奪いました。そのとき、チーグ町を中国の旅行者、ジャン・シャンが訪れ、天山の民族とハン国の間に交流が始まりました。

ペスチャンノエ村の隣にある入り江の底に、サリブルン町の遺跡が見つかりました。残されていた材料によって、ここに一箇所だけ居住地があったことがわかりました。それは「チーグ」だったのです。学者は、沈んだサリブルン町はチーグ町であるという仮説を立てています。

残念ながら、古代のウスニ族の拠点を散歩できるのは、スキンダイバーたちだけですが、入り江の南方では流されてきた古代の焼き物を多く見つけることができます。

 

2.サン・タシ    (塚の謎)

昔からサン・タシ峠は、クンゲイアラトーからテルスキーアラトーの北裾野を越える分かれ道として使われてきました。高山の谷間には、サーク族の古墳や石で造った塚などがたくさんあります。古墳の直径は60メートルにもなります。

特に、二つ隣り合わせにある古墳が注目に値します。(小さい方は考古学者が発掘して、もうありません。)この有名なサン・タシの古墳について、「鉄のちんば」と呼ばれたモンゴルのタミルランがインドへ出征したことに合わせた伝説があります。タミルランは、出征の前に兵士が小山に一つ石を置いて、帰った時、一つ石を隣の小山に置くように命令しました。二つの塚は、死んだ兵士のために特異な記念物になりました。この伝説にちなんで、サン・タシ(数えた石)と呼ばれます。

学者たちは、この古墳を古代の遊牧民が作ったと推測していました。しかし、発掘して円形テント型の石の施設を発見した時、学者たちは驚きました。遊牧のサーク族時代のものではなく、中世期のチムール時代に属していたのです。

国内に1ヶ所だけあるこの建造物が造られた目的は、まだわかりません。発掘調査の結果を待たなければなりません。

 

 

3.N・M・プレジワルスキーの記念碑   (カラコル市)

1869年にカラコル市が設立され、町の中心にあるカラコル大学に記念碑ができました。この時代には、カラコルはロシア人やいろいろな国の人間が天山と中央アジアへ探検に行く基地でした。

1885~88年に、偉大なロシアの探検家で中央アジア研究者のN.M.プレジワルスキー滞在しました。彼は、サンクトペテルブルグから5回の探検に来て、腸チフスに感染してカラコルで死んでしまいました。プレジワルスキーの記念像は、カラコル空港の近くにあります。しかし主な記念建築物は、カラコル川が湖に入るところにある彼の墓の近くにあります。

記念碑は、岩の上部に知恵と優しさのシンボルである鷲がいる構図です。鷲のくちばしには、科学の平和的な目的のシンボルであるオリーブの枝、そして、爪には折った中央アジアの地図をつかんでいます。

岩の表面には、青銅の十字架がしっかり取り付けられました。その下には、ロシア科学アカデミーから彼の功績に贈られたメダルを大きく複製したものがつけてあります。下部には、「ニコライ・ミハイロビチ・プレジワルスキー 最初の中央アジアの研究者、1839年3月31日生まれ、1888年10月20日死亡」と書いた銘があります。記念碑は中央アジアで最初のモニュメントです。

1957年4月29日には、記念館を造ることが決まりました。墓と記念碑の近くに記念館ができました。ここには、研究の成果物や彼の遺品が展示してあります。

 

4.ドゥンガン人のモスク    (カラコル市)

カラコルに立派な記念的建築物のモスクがあります。モスクの建築家たちは、ドゥンガン人伝統的な木造建築の経験と技術を使って造りました。モスクを彫刻家、レンガ職人、屋根屋など30人以上の職人で造りました。

1907年に建築家が、天山もみ、カラガチ(コブニレ)、ポプラ、クルミなどの材料の用意を始めました。準備に3年間かけ、1910年にモスクの骨組みを組み立てました。大きさは24.8m*23mで、中央アジアのモスクと比べるとそれ程大きくありません。

モスクは、東側と西側に2列の柱がある長方形をしています。南側と北側に窓を作って、西側にはありません。そこには、神に祈る人たちが顔を向けるからです。外部に彫刻した模様には、民族の神話にある怪物やフェニックス、ライオンを装飾に使っています。民族の伝説に従って、彼らは建物を災害と悪魔から守っています。

建物の色、材料、屋根の色は、厳しく決められました。木造部分と柱が赤色、壁が濃紅色、屋根は緑色、さらに、彫刻した模様には、ぶどう、ざくろ、梨、桃など植物の模様は緑色、神話の動物は黄色の二色で塗りました。

神話によると、それぞれの色には意味があります。赤は災害と悪魔から守り、黄色は富と偉大さを表し、緑色は幸福と幸運を持ってくるのです。

 

5.健康に良いアクスウ温泉   (カラコル市)

カラコル町から15km、天山のもみやりんごや落葉樹が生える谷間に景色のいい温泉があります。イシククリ湖東部の人々は、昔からアクスウ温泉の効能についてよく知っています。住民は温泉を崇拝し、アルマ・アラシャン(リンゴの効能がある温泉)と呼んでいたことから聖所と言われています。

1857年6月9日から10日にかけ、ロシアの探検家P.P.セミョノフ・テンシャンスキーが訪れ、後に「回想録」に書いています。その後、プレジバルスキー町が建設されたので、イシククリに来た多くの研究者や旅行者が温泉を訪れました。

19世紀の終わりに、温泉が中央アジアや西シベリアにも有名になったとき、地区の行政は市民や訪れる人々のために木造の建物を建てました。近所のキルギス人はユルタに住んで、ここを訪れる保養客に肉やクムス(馬乳酒)を提供していました。

 

観光案内 イシククリ湖の歴史、伝説、宝物

イシククリ湖の伝説      (出典不明 伝説を集めた小冊子だったような?)

(2000年頃訳2018年4月一部修正)

1.イシククリ湖は何才ですか。

昔、何百万年前ここにはテチス海があった。テチス海は、地中海、黒海、カスピ海などほとんど中央アジアの全部を含んだ。それを示すように今の陸地には、水成岩を見ることができる。

1億年の間に、ここには何回も山ができ、また崩れたり、できたくぼみが水で満ちたり海になったりした。最後に、およそ三千万年前に波が轟々と鳴って、海の底がだんだん上がり始めた。その結果、現在の天山山脈が現れた。

しかし活動は止まらないで、山が次々にできた。氷河期には氷河が現れて、また溶けてくぼみが湖になったりした。そのときイシククリ湖ができた。「若い」湖で一千万才です。暖かくなってから植物や動物が現れた。

 

2.イシククリ湖の伝説

昔々、古代の町があった。険しい山の上に宮殿が建っていた。それは、富だけでなく冷酷さで有名な老年の強靭なハーン(汗)のものであった。一日も経たないうちに、誰かが彼の気まぐれの犠牲になっていた。

彼は愛情も恋愛も知らなかった。でもある日、貧乏な遊牧民の家族にとてもきれいな娘がいるという噂を聞いて、彼のものにすると決めた。たくさんの名騎手が彼女のために決闘で命を捧げた。しかし彼女は、結婚の申し込みにいつも他の人を愛していると答えた。

誰を愛しているかは誰にも分からなかったし、彼女にもはっきり分からなかった。ある朝、太陽が山頂に光を指したとき、白い馬に乗ったハンサムな騎手が来て彼女といっしょに空高く舞い上がったことだけ覚えている。別れる時、彼は彼女の指に指輪をはめて、「すぐに帰ってきます。決して指輪を外さないでいつも持っていたら、どんな不幸にも会わないでしょう。」と言った。

それで、ハーンの使者が贈物を持ってきてハーンとの結婚を申し込んだとき、彼女は贈物をどけて「他に好きな人がいます。彼以外の誰の妻にもなりません。」と答えた。そう言ってから彼女は、騎手に会うようにこっそり山に行った。そのとき指輪がなくなっているのに気が付いた。泣いて家に帰ってくると、家の前に武装した兵隊がいて彼女を取り囲んだ。すぐにつかまえられて、暗い谷間に見えなくなった。目かくしを取った時、ハーンの所に来たとわかった。

ハーンは、彼女を今までに無いほど豪華なもので囲んだが、彼女はあくまで厳然として立っていた。それでハーンは、力ずくで娘に飛びついたが彼女はすぐ開いている窓の前に立った。「決してあなたのものにならない。」と言って窓から飛び降りた。その時、壁が崩れてハーンの宮殿が沈んでいった。地面から水がどっと流れ出て、廃墟となった宮殿が水の下になった後も広い谷を浸すまで流れ出ていた。

 

3.イシククリの宝物

ある日、スパイが恐ろしい知らせを持って戻って来た。信じられないほど暗い噂がすぐに広まった。何万人ものモンゴル騎兵がすべてを破壊しながらセミレチェに向かっている、という。チンギスハンのスパイがそういう噂を言って、町の統括者を脅かしたのだ。

カラハニッド国の首都バラサグンにもパニックが起こった。ブラナの塔に警備兵が昼でも夜でも目が痛くなるほどじっと遠くを見ていた。町の近くにあるネオストリアンの居留地―イスラム教徒の世界にあるキリスト教の土地―では、たくさんの富を守るためにこっそり隊商を備え始めた。

教会の財産と宝のために200頭のらくだに金と銀を積んだ。隊商は秘密のうちに天山の中心に向かって、東南に出発した。カラハニッドの統率者は戦わずにバラサグン町をチンギスハンの司令官に明け渡した。それでモンゴル人は、バラサグンの町を「友好の町」と呼んだ。町の周りはモンゴルの騎兵が踏み荒らして、農業の畑地が家畜の放牧場になった。

隊商はイシククリ湖まで来て、北の湖岸を行った。休みが短いので案内者は無口だった。やがて、北の岸が南の岸と交わるチップ町の入り口で恐ろしい知らせがきた。「モンゴル隊が追跡してきている」という。前方には待ち伏せ、後方には追跡である。どうしたらよいだろうか。選択の道はなかった。

修道僧たちは財宝を隠すとことにした。クルメンテ川に戻ってきて、そこに古代の塚の列―昔の遊牧民の強大な統率者の墓・目につかなくて確かな目標物―を見つけた。案内者が秘密の岩屋を見つけたので、その奥を広げて金や銀の包みを投げ込んだ。入り口に岩を置き、2メートルの土で埋めた。僧は、用が無くなった案内者と人夫を殺し、また2メートルの土で埋めた。

岩屋の入り口を隠して、大きな岩の上にネオストリン文字を書いた。秘密を守って誰にもキリストの宝を明かさないと誓い合った。やがて石は神聖になり、何年経っても遠方から参拝者が来るようになった。秘密は漏れなかったので宝は残った。

 

4.水底のダルハン町(イシククリ湖)

現在のダルハン村の北方の荒れ果てた湖畔に中世期の住居地があります。厚い砂の層が湖畔からツェルガナスという低木やいばらのしげみ、泉、沼地まで伸びています。しかし、湖畔が荒れ果てたのは見かけばかりのことで、時々波はいろいろな考古学的な物を陸地に運びます。

湖の底から掘り出した物のなかにサーク時代、ウスニ時代(紀元前1世紀)のものや、もっと多くは中世期時代のものを発見します。コイン、石臼や古代の金属製品などが拾い上げられます。ダルハン村に住んでいるトクトバイ・モオリエフが、2本の短刀、茶わん、サーク時代の大きな青銅釜の一部を見つけました。この掘り出したものが、イシククリ古代遊牧民の供物の用品であったのでしょう。

ダルハン遺跡は、大事な地理的位置にあります。ズウキン峠をテルスキー・アラトーに一番便利に越える通行を管轄していました。(未完)