2018年4月配信
ビシケク市について (2000年頃作成、未完)
1.概要 2.自然 3.歴史
1.概要
キルギス共和国の首都ビシケク市は、キルギス山脈の北 チュイ盆地にあります。標高は700~900メートルで、面積は127.29平方キロ、人口は67万2千人(1989年)です。
市は、レーニン、アクチャブリ(10月)、ペルバマーイ(5月1日)、スベルトロバの4つの行政区からなっています。
市の郊外には、国際空港のマナス空港があります。
市内には、大統領府を始め博物館4、劇場4、図書館5、市場4箇所があります。
2.自然
年平均気温は10.2度C、年降水量は409ミリ、年平均湿度は60パーセントです。
月平均気温は1月が-4.6度Cで最も低く、7月が24.5度Cで最も高くなっています。
1930年12月には最低気温-38度C、1983年7月には最高気温43度Cを記録しました。
年降水量の53パーセントが3月から6月にかけて降ります。1930年8月30日には、1日の降水量70ミリを記録しました。
3.歴史
都市計画と建築様式(1984年発行 フルンゼ百科事典 より)
ビシケクの区域と周辺には、6~14世紀のものとみられる都市遺跡がある。これらは、粘土などをこねて作った壁または強固に盛土した壁に囲まれた居住地であった。住民の住居は生レンガで作られ、天井はれんがで丸型、または木で平らに作られていた。遊牧民族の住居は、移動式丸型テント(ユルタ)だった。1825年にコウカンド国のピシペクという要塞ができて、西の防壁の近くに次第に粘土壁の住居ができた。
1878年に都市建設の最初の計画が作成され、街区の1区画を1~1.5ヘクタールにすることになった。街の広場、公園、並木道、軍事病院など、またいろいろな役所のために場所が決められた。東のはずれは、回教寺院、バザール、干草用地、刑務所用地、兵舎に割り当てられた。都心にニコライ教会と練兵所が配置された。
住居は、粘土などをこねたり日干しレンガで作った一階建ての家がほとんどだった。少し経って二階建てレンガの家が現れた。住居はステップ地方にある代表的なもので、簡単な作り方だった。
ソビエト政権の最初から都市計画と建築様式の新しい芸術的手段の探求が始まった。都市建設に際しての選択で、道路を緯度子午線に合わせた。20年代に生産のためのいくつもの建物、たとえば皮革やレンガ工場、インテルゲルポ協同組合などが建てられた。
20年代の終りには、都市建設での興味深いできごととして円形街区(今日の労働者街区)の出現があった。平地に放射状の輪を造り、田舎の風景を取り入れて都市生活の快適さを創出する試みをした。
最初の住宅建設は、同名の産業協同組合にちなんで「インテルゲリポ」地区となった。個々の住宅規模は大きな規格となった。
最初の大規模な建築は、キルギス自治州人民会議の建物(今の歴史博物館)(1927年建 設計А.П.ゼニコフ)だった。
20~30年代に共産主義大学、国立銀行(今の5月1日支店)、女性教員学校、鉄道、フルンゼ駅、印刷所、音楽学校、歴史専門学校、アラト-映画館などが建てられた。
10月革命の第19回記念日に、州庁舎(今のキルギス最高会議幹部会の建物。36年建 設計А.Ю.ドゥボフ)が建てられた。
30年代の建築の特徴で、柱列、柱廊、大きなアーチ型の壁抜き(医科大学 39年建 設計Ф.П.ステブリン ジルジンスキー大通り・トクトグラ通り角のアパート 設計C.X.サークヤン、 П.П.イワノフ、А.М.アリバンスキー)、キルギス民族模様の使用(キルギス最高会議幹部会の建物ホール入口 構成Б .ウィツ、Л.メサロフ)が現れた。
30年代は、20年代に始まった広場や通り、大規模な産業用建物などの一連の整備が続けられた。37年に初めて都市の地形図、基本的なフルンゼ総合計画ができて、戦前に首都の改良が始まった。住民のために防湿、衛生関係に最も注意し、都市内の個々の地区の関係が最良となるように、また全体配置、文化施設や産業、公共施設の配置を考慮した。
市内では、公園(Ю.フチカ記念公園 36年建)、小公園(中央地区 38年建)、庭園、新しい緑地帯、貯水池が起工した。
1940年、新しい建築様式で最初の建築がされた。パビリオン・ミネラルウオーター「アク・スー」近接して映画館「アラ・トー」(設計 A.M.アリバスキー、構成 O.M.マヌイロバ)。40年代最初の銅像(パンフィーロフ.И.В.及び Г.В.レーニン像 48年建 製作Г.В.ニロダ 設計 В.В.ベリュジスキー)が建てられた。
50年代は特に早いテンポで、学校、幼稚園、幼児園、職業学校、大学、医療、行政、文化生活などの施設が施工された。59年には複合施設 キルギス科学アカデミーと同盟会館が、「 」は57年に、51年には総合建築物のソビエト広場が建設された。55年にはオペラ・バレー劇場、そのあと同地区の建築物 Н.Г.チェルヌシェスキー記念国立図書館(62年)、ホテル・キルギスタン(71年)造形美術館(74年)、アイチュルク・デパート(74年)、トクトグル像が設置された。
50年代の公共施設は、ソビエト商業技術学校、空港、映画館“10月”、農業展示館(ВДНХキルギス)がある。プール、噴水、小公園などの小規模な建築も多く行われた。また、規格に沿った2階建て、3階建て住宅の大量建築が始まった。
60年に市で最初の5階建て住宅が、ビリンスキー通り(今のマナス通り)とレーニン大通り(今のチュイ大通り)の角に建てられた。住宅には、回廊、バルコニー、テラスが自然環境によく調和するように設けられた。60年代には商業用の建築がかなり速く進んで、東洋と西洋の工業中心地ができた。
60年代半ば過ぎから、その時代の要請にかなう建物が建てられた。工業研究所と研究施設、たとえばキルギス国立放送協会のスタジオ制御室、ラジオ会館、キルギス科学アカデミーの建物など。67年にキルギス共産党中央委員会とソ連キルギス共和国閣僚会議がある建物が建てられた(今の国会議事堂)。60年代の建築で、フルンゼ博物館(67年)が特別な位置を占めている。
70年に町の中間的な建築図案と基本計画が決定された後、首都の美的な建築物となる文化的な建物が建てられた。たとえば、キルギス演劇場(70年)、ロシア演劇場(71年)、レストラン「セイイル」(73年、設計A.И.イサエフ)、政治教育会館(74年)、レーニン・スポーツ会館(今のコジョマクール・スポーツ会館)、国民生産物展覧会場の主要な展示館・ВДНХ(74年)、生活サービスサンタ-(75年、設計 Ю.П.カリフ、Б.モルドバエフ、К.サルバノフ)、ホテル「ピシペク」(75年)、サーカス場(76年)、実験的な中学校の5番学校(80年)、国立音楽堂(80年)、マナス空港(81年)、西部バスターミナル(81年)、子供スポーツセンターのプール(83年、設計 К.サルバノフ、В.Д.ホフトほか)など。
心臓病大学及び付属病院や厚生省の主要施設である4番病院など、保健施設の建築に多くの注意が払われた。
70年代から社会文化施設と併せてアパートが建てられ始めた。たとえば、南門団地(今の10番団地)、ソビエト通りとボコンバエバ通り、プラウダ通りとオゴンバエフ通り、トクトグウル通りとスベルトロブ通りなどの交差点のアパートである。これらの建物は、気候の特徴を考慮し民族装飾を使用して建てられた。ソビエト通り、ビリンスカヤ通り、レーニン通り、マルクス通り、ミラ通りの景観がとてもきれいになった。
60年代半ばから20年間の建築は、キルギス国立建築計画研究所で作られた計画で行われた。たとえば、105シリーズの5階と9階建てのパネル式住宅(設計 Е.Г.ピサルスコイ、В.Е.セドフ、技師 А.И.モズゴボイなど)と106シリーズの9階建て高層パネル工法のアパート(設計 Е.Г.ピサルスコイ、技師 Е.Д.スヌチコフほか)、れんが造りの98シリーズのアパートである。
73年に9階建ての最初のアパートがビリンスキー通りとレーニン通りの交差点に建てられた。82年に「バイチェチェケイ」という店がある12階建ての最初のアパートが、ミラ大通りに建てられた。ジュキエバ・プドフキナ通りに大型パネルを使った105シリーズ最初の16階建てのアパートが建てられた。高層建築では耐震設計に大きな注意を払った。
79年にビシケク市中心部の詳細設計が決定され、この設計図でレーニン中央博物館の分館(今の歴史博物館)、レーニン図書館(今の国立図書館)、市役所、通信会館、コルホーズの市場、商業と生活文化施設、学校とその他(通り、広場、噴水、銅像、大小の公園)が建築された。
年代表 主なできごと
紀元前5千年~4千年 市の区域内に最初の生活跡があった(アラミジン住居跡)
紀元前7世紀~紀元5世紀 サコフ族とウスニ族の結合
5世紀~14世紀 ピシペク、クズルアスケル、チョキョルジョシュほかに住民の住居跡
15世紀~19世紀初め キルギス民族は、現在の市区域あたりに遊牧していた。
1825年 コウカンド国のピシペク要塞の設置
1845~47年 カザフ汗ケネンモスカルモブの攻撃にキルギス民族が敗北した。
1845年 チュイ盆地のキルギス民族がロシア政権に対して、ロシア領となることを願い出た。
1860年8~9月 ロシア軍がチュイのキルギス民族協力のもとに、ピシペク要塞を攻撃。
1862年10月24日 ピシペク要塞を再度攻撃した。
1863年 キルギス民族がロシア国の傘下に入った。
1864年 コウカンド国が崩壊した。ピシペク要塞にロシア軍の前哨ができた。
1867年 トクマク郡の設置とアラミジン、ピシペク入植地の設置
1876年 4月26日~ トクマク郡役所がピシペクに移転した。ピシペクは町になりピシペク郡 5月13日 の中心となった。
1878年 8月31日 ピシケク町の建設計画の決定
1879年10月31日 ロシア正教の教育学校の開校式。最初の教育施設。
1881年 にれの木の植林
1883年 ドゥンガン人の大規模な村の形成があった。
1885年 1月21日 M.B.フルンゼが生まれた。
1885年 ロシアの探検家プルジバルスキーがピシペクを訪れた。(最初の訪問)
1889年 キルギス造園学校の開校式(1894年から農業学校)
1895年 無料公共図書館の開館
1897年 ロシア帝国の最初の国勢調査で、ピシペクの人口は6615人だった。
1898年 ドボブイ庭園の基礎を据えた。
1899年 最初の薬屋の開店
1903年12月初め 町に最初の非合法的な反政府宣伝ビラが現れた。
1905年8月6日~ 民衆集会があった。
11月8日
1905年11月16日 ピシペク有線電信会社社員のストライキがあった。
1905年~1912年 社会民主主義サークルの活動があった。
1906年 家畜の定期市場が初めて開催された。
1907年 5月 入植した農民のために診療所が開所した。
1907年 移動上映映画が現れた。
1908年 ピシペクにロシア式学校が開設した。
1910年~17年 チュー川にかんがい施設の建設が行なわれた。
1911年 「メテオル」と「マルズ」映画館の開館
1912年 ピシペク通りに最初の自動車が現れた。
1912年 5月 男性用体育館の開設
1913年 3月31日