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ビシケク市について

2018年4月配信

ビシケク市について          (2000年頃作成、未完)

1.概要   2.自然   3.歴史

 

1.概要

キルギス共和国の首都ビシケク市は、キルギス山脈の北 チュイ盆地にあります。標高は700~900メートルで、面積は127.29平方キロ、人口は67万2千人(1989年)です。

市は、レーニン、アクチャブリ(10月)、ペルバマーイ(5月1日)、スベルトロバの4つの行政区からなっています。

市の郊外には、国際空港のマナス空港があります。

市内には、大統領府を始め博物館4、劇場4、図書館5、市場4箇所があります。

 

2.自然

年平均気温は10.2度C、年降水量は409ミリ、年平均湿度は60パーセントです。

月平均気温は1月が-4.6度Cで最も低く、7月が24.5度Cで最も高くなっています。

1930年12月には最低気温-38度C、1983年7月には最高気温43度Cを記録しました。

年降水量の53パーセントが3月から6月にかけて降ります。1930年8月30日には、1日の降水量70ミリを記録しました。

 

 

3.歴史

都市計画と建築様式(1984年発行 フルンゼ百科事典 より)

ビシケクの区域と周辺には、6~14世紀のものとみられる都市遺跡がある。これらは、粘土などをこねて作った壁または強固に盛土した壁に囲まれた居住地であった。住民の住居は生レンガで作られ、天井はれんがで丸型、または木で平らに作られていた。遊牧民族の住居は、移動式丸型テント(ユルタ)だった。1825年にコウカンド国のピシペクという要塞ができて、西の防壁の近くに次第に粘土壁の住居ができた。

1878年に都市建設の最初の計画が作成され、街区の1区画を1~1.5ヘクタールにすることになった。街の広場、公園、並木道、軍事病院など、またいろいろな役所のために場所が決められた。東のはずれは、回教寺院、バザール、干草用地、刑務所用地、兵舎に割り当てられた。都心にニコライ教会と練兵所が配置された。

住居は、粘土などをこねたり日干しレンガで作った一階建ての家がほとんどだった。少し経って二階建てレンガの家が現れた。住居はステップ地方にある代表的なもので、簡単な作り方だった。

ソビエト政権の最初から都市計画と建築様式の新しい芸術的手段の探求が始まった。都市建設に際しての選択で、道路を緯度子午線に合わせた。20年代に生産のためのいくつもの建物、たとえば皮革やレンガ工場、インテルゲルポ協同組合などが建てられた。

20年代の終りには、都市建設での興味深いできごととして円形街区(今日の労働者街区)の出現があった。平地に放射状の輪を造り、田舎の風景を取り入れて都市生活の快適さを創出する試みをした。

最初の住宅建設は、同名の産業協同組合にちなんで「インテルゲリポ」地区となった。個々の住宅規模は大きな規格となった。

最初の大規模な建築は、キルギス自治州人民会議の建物(今の歴史博物館)(1927年建 設計А.П.ゼニコフ)だった。

20~30年代に共産主義大学、国立銀行(今の5月1日支店)、女性教員学校、鉄道、フルンゼ駅、印刷所、音楽学校、歴史専門学校、アラト-映画館などが建てられた。

10月革命の第19回記念日に、州庁舎(今のキルギス最高会議幹部会の建物。36年建 設計А.Ю.ドゥボフ)が建てられた。

30年代の建築の特徴で、柱列、柱廊、大きなアーチ型の壁抜き(医科大学 39年建 設計Ф.П.ステブリン ジルジンスキー大通り・トクトグラ通り角のアパート 設計C.X.サークヤン、 П.П.イワノフ、А.М.アリバンスキー)、キルギス民族模様の使用(キルギス最高会議幹部会の建物ホール入口 構成Б .ウィツ、Л.メサロフ)が現れた。

30年代は、20年代に始まった広場や通り、大規模な産業用建物などの一連の整備が続けられた。37年に初めて都市の地形図、基本的なフルンゼ総合計画ができて、戦前に首都の改良が始まった。住民のために防湿、衛生関係に最も注意し、都市内の個々の地区の関係が最良となるように、また全体配置、文化施設や産業、公共施設の配置を考慮した。

市内では、公園(Ю.フチカ記念公園 36年建)、小公園(中央地区 38年建)、庭園、新しい緑地帯、貯水池が起工した。

1940年、新しい建築様式で最初の建築がされた。パビリオン・ミネラルウオーター「アク・スー」近接して映画館「アラ・トー」(設計 A.M.アリバスキー、構成 O.M.マヌイロバ)。40年代最初の銅像(パンフィーロフ.И.В.及び Г.В.レーニン像 48年建 製作Г.В.ニロダ 設計  В.В.ベリュジスキー)が建てられた。

50年代は特に早いテンポで、学校、幼稚園、幼児園、職業学校、大学、医療、行政、文化生活などの施設が施工された。59年には複合施設 キルギス科学アカデミーと同盟会館が、「    」は57年に、51年には総合建築物のソビエト広場が建設された。55年にはオペラ・バレー劇場、そのあと同地区の建築物 Н.Г.チェルヌシェスキー記念国立図書館(62年)、ホテル・キルギスタン(71年)造形美術館(74年)、アイチュルク・デパート(74年)、トクトグル像が設置された。

50年代の公共施設は、ソビエト商業技術学校、空港、映画館“10月”、農業展示館(ВДНХキルギス)がある。プール、噴水、小公園などの小規模な建築も多く行われた。また、規格に沿った2階建て、3階建て住宅の大量建築が始まった。

60年に市で最初の5階建て住宅が、ビリンスキー通り(今のマナス通り)とレーニン大通り(今のチュイ大通り)の角に建てられた。住宅には、回廊、バルコニー、テラスが自然環境によく調和するように設けられた。60年代には商業用の建築がかなり速く進んで、東洋と西洋の工業中心地ができた。

60年代半ば過ぎから、その時代の要請にかなう建物が建てられた。工業研究所と研究施設、たとえばキルギス国立放送協会のスタジオ制御室、ラジオ会館、キルギス科学アカデミーの建物など。67年にキルギス共産党中央委員会とソ連キルギス共和国閣僚会議がある建物が建てられた(今の国会議事堂)。60年代の建築で、フルンゼ博物館(67年)が特別な位置を占めている。

70年に町の中間的な建築図案と基本計画が決定された後、首都の美的な建築物となる文化的な建物が建てられた。たとえば、キルギス演劇場(70年)、ロシア演劇場(71年)、レストラン「セイイル」(73年、設計A.И.イサエフ)、政治教育会館(74年)、レーニン・スポーツ会館(今のコジョマクール・スポーツ会館)、国民生産物展覧会場の主要な展示館・ВДНХ(74年)、生活サービスサンタ-(75年、設計 Ю.П.カリフ、Б.モルドバエフ、К.サルバノフ)、ホテル「ピシペク」(75年)、サーカス場(76年)、実験的な中学校の5番学校(80年)、国立音楽堂(80年)、マナス空港(81年)、西部バスターミナル(81年)、子供スポーツセンターのプール(83年、設計 К.サルバノフ、В.Д.ホフトほか)など。

心臓病大学及び付属病院や厚生省の主要施設である4番病院など、保健施設の建築に多くの注意が払われた。

70年代から社会文化施設と併せてアパートが建てられ始めた。たとえば、南門団地(今の10番団地)、ソビエト通りとボコンバエバ通り、プラウダ通りとオゴンバエフ通り、トクトグウル通りとスベルトロブ通りなどの交差点のアパートである。これらの建物は、気候の特徴を考慮し民族装飾を使用して建てられた。ソビエト通り、ビリンスカヤ通り、レーニン通り、マルクス通り、ミラ通りの景観がとてもきれいになった。

60年代半ばから20年間の建築は、キルギス国立建築計画研究所で作られた計画で行われた。たとえば、105シリーズの5階と9階建てのパネル式住宅(設計 Е.Г.ピサルスコイ、В.Е.セドフ、技師 А.И.モズゴボイなど)と106シリーズの9階建て高層パネル工法のアパート(設計 Е.Г.ピサルスコイ、技師 Е.Д.スヌチコフほか)、れんが造りの98シリーズのアパートである。

73年に9階建ての最初のアパートがビリンスキー通りとレーニン通りの交差点に建てられた。82年に「バイチェチェケイ」という店がある12階建ての最初のアパートが、ミラ大通りに建てられた。ジュキエバ・プドフキナ通りに大型パネルを使った105シリーズ最初の16階建てのアパートが建てられた。高層建築では耐震設計に大きな注意を払った。

79年にビシケク市中心部の詳細設計が決定され、この設計図でレーニン中央博物館の分館(今の歴史博物館)、レーニン図書館(今の国立図書館)、市役所、通信会館、コルホーズの市場、商業と生活文化施設、学校とその他(通り、広場、噴水、銅像、大小の公園)が建築された。

 

 

年代表           主なできごと

紀元前5千年~4千年    市の区域内に最初の生活跡があった(アラミジン住居跡)

紀元前7世紀~紀元5世紀  サコフ族とウスニ族の結合

5世紀~14世紀      ピシペク、クズルアスケル、チョキョルジョシュほかに住民の住居跡

15世紀~19世紀初め   キルギス民族は、現在の市区域あたりに遊牧していた。

1825年         コウカンド国のピシペク要塞の設置

1845~47年      カザフ汗ケネンモスカルモブの攻撃にキルギス民族が敗北した。

1845年         チュイ盆地のキルギス民族がロシア政権に対して、ロシア領となることを願い出た。

1860年8~9月     ロシア軍がチュイのキルギス民族協力のもとに、ピシペク要塞を攻撃。

1862年10月24日   ピシペク要塞を再度攻撃した。

1863年         キルギス民族がロシア国の傘下に入った。

1864年         コウカンド国が崩壊した。ピシペク要塞にロシア軍の前哨ができた。

1867年         トクマク郡の設置とアラミジン、ピシペク入植地の設置

1876年 4月26日~  トクマク郡役所がピシペクに移転した。ピシペクは町になりピシペク郡     5月13日   の中心となった。

1878年 8月31日   ピシケク町の建設計画の決定

1879年10月31日   ロシア正教の教育学校の開校式。最初の教育施設。

1881年         にれの木の植林

1883年         ドゥンガン人の大規模な村の形成があった。

1885年 1月21日   M.B.フルンゼが生まれた。

1885年         ロシアの探検家プルジバルスキーがピシペクを訪れた。(最初の訪問)

1889年         キルギス造園学校の開校式(1894年から農業学校)

1895年         無料公共図書館の開館

1897年        ロシア帝国の最初の国勢調査で、ピシペクの人口は6615人だった。

1898年        ドボブイ庭園の基礎を据えた。

1899年        最初の薬屋の開店

1903年12月初め   町に最初の非合法的な反政府宣伝ビラが現れた。

1905年8月6日~   民衆集会があった。

11月8日

1905年11月16日  ピシペク有線電信会社社員のストライキがあった。

1905年~1912年  社会民主主義サークルの活動があった。

1906年        家畜の定期市場が初めて開催された。

1907年 5月     入植した農民のために診療所が開所した。

1907年        移動上映映画が現れた。

1908年        ピシペクにロシア式学校が開設した。

1910年~17年    チュー川にかんがい施設の建設が行なわれた。

1911年        「メテオル」と「マルズ」映画館の開館

1912年        ピシペク通りに最初の自動車が現れた。

1912年 5月     男性用体育館の開設

1913年 3月31日

 

 

 

ビシケクの施設等

ビシケクの施設等       2018年4月配信

(出典は「フルンゼ百科事典」1984年刊によります。訳2000年頃 未完)

銅像・彫刻群「マナス」

「マナス」と名づけられた銅像・彫刻群は、1981年に国立コンサートホール(フィラルモーニア)前の広場に造られました。銅像のひとつは、キルギス民族の叙事詩にある「マナス」という英雄の姿を表しています。銅像は、伝統的な英雄マナスと彼の妻カニケイ、そしてマナスの助言者バカイです。これらの銅像の近くには、叙事詩の伝承者の胸像が置かれています。それらは、カララリエバ・サヤクバイ、オロズバコバ・サグンバイ、ジャプ・トゥヌベカ、バルク・ナイマンバイの4人です。

ビシケク 音楽ホール前のマナス像19年6月
ビシケク 音楽ホール前のマナス像19年6月

銅像・彫刻群の中心は、馬に乗って竜を従えているマナスの像です。像の高さは6.3m、竜の長さは13mです。台座は鉄筋で、外装は花崗岩、高さは14.7mです。カニケイの銅像は高さ4.5m、台座3.5m、バカイは高さ4.5m、台座3.5mです。三つの銅像は噴水の中央にあり、噴水の前は花壇になっています。

叙事詩の伝承者たちの胸像は赤い花崗岩で作られ、花壇の西と東にあります。高さは、ほぼ3mです。

ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月
ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月

銅像・彫刻群の製作は、彫刻はサドゥコブ、設計はペチェンキンが行ないました。

国立オペラ・バレー劇場

1936年に建てられたときは、キルギス音楽ドラマ劇場という名称でした。41年に音楽劇場、42年にキルギス国立オペラ・バレー劇場、59年にアカデミーオペラ・バレー劇場、78年にA・マルドゥバエバエバ記念キルギス国立オペラ・バレー劇場と名称を変えています。

ビシケク オペラ・バレー劇場 19年5月
ビシケク オペラ・バレー劇場 19年5月

オペラの初演は、39年の「アイチュリョク」でした。

現在の建物は、1955年に開館しました。設計は、ラブレンコというロシア人でした。

 

アイチュリュク・デパート(ツム・デパート)

1974年に開館、当初1階は家庭用品、2階は婦人用品、3階は男性用品だった。売り場面積6763平方メートル、1982年の売上は88.4百万ルーブル。5階建ての建物は鉄筋コンクリート造。

ビシケク ツムデパート19年6月
ビシケク ツムデパート19年6月

トクトグル・サトルガノフ記念国立音楽堂(フィラルモーニア)

建物は、キルギス国立劇場の民族楽器オーケストラに基づいて、1936年に創設されました。最初の音楽指導者はB.フェレで、音楽堂には1939年からトクトグル・サトルガノフ記念という名称をつけました。1939年に民族楽器オーケストラ、キルギス民族舞踊アンサンブル、ロシア民族音楽アンサンブル、ドゥンガン民族アンサンブル、吹奏楽団が活動し始めました。

これらのアンサンブルは、日本をはじめカナダ、フランス、アメリカ、スエーデンなどに公演に行きました。1939年には、労働赤旗勲章が音楽堂に授与されました。

今の建物は、1980年にペチョンキンの設計で造られ、中には2つのホールがあります。大きいホールは1200席、小さい方は300席です。コンサートは、主にこの音楽堂とスポーツ会館で開催されます。(上記写真 マナス像後方の建物がフィラルモ-ニア)

キルギス共和国について

キルギス共和国について  (ウィキペディアより)

キルギス共和国(キルギスきょうわこく)、通称キルギスは、中央アジアに位置する旧ソビエト連邦共和制国家である。首都はビシュケク(旧名フルンゼ)。かつての正式国名はキルギスタンであり、改称以降も別称として公式に認められている。

内陸国で、北から時計回りにカザフスタン中華人民共和国タジキスタンウズベキスタンと国境を接する。西部のバトケン州内にはタジキスタンとウズベキスタンの飛び地がある(「バトケン州#飛地」参照)。ソビエト連邦から独立したウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、タジキスタンとともに中央アジアを形成し、独立国家共同体 (CIS) 加盟国である。旧ソ連を構成していた中央アジア5カ国で「最も民主的」といわれるキルギスでは、2005年と2010年に野党勝利による政変があった。しかし、キルギスの大統領たちは政権交代による第一野党勝利後にそれぞれ国外に亡命している

国名[編集]

正式名称はキルギス語では Кыргыз Республикасы(Kyrgyz Respublikasy; クルグズ・レスプブリカス)、ロシア語では Киргизская Республика(Kyrgyzskaia Respublika; キルギースカヤ・リスプーブリカ)。別称は Кыргызстан(Kyrgyzstan; クルグズスタン)。

1991年の独立時にキルギス語の国名を Кыргызстан РеспубликасыKyrgyzstan Respublikasy; クルグズスタン・レスプブリカス)としたが、1993年に憲法を改正して正式国名を現行の Кыргыз Республикасы に改めた。ただし、国名変更以降も旧称 Кыргызстан が別称として公式に認められている。

公式の英語表記は Kyrgyz Republic。別称 Kyrgyzstan。 国民・形容詞はKyrgyztani。

日本語の表記はキルギス共和国[3]通称キルギス

クルグズ(キルギス)の語源は「кырк(クルク)」が40の意味で、40の民族を指し、また中国人にかつて「гунны(グンヌィ、匈奴)」と呼ばれていた背景から、それらを合わせてクルグズとなったと言われている。 ちなみに、テュルク系言語で40を意味する「クゥルク」に、娘や女の子を意味する「クゥズ」を合わせた「クゥルク・クゥズ」は、“40人の娘”という意味になり、中央アジアに広く伝えられるアマゾネス伝承との関連をうかがわせる。したがって、「40の民族」というよりも、「40の部族」ないし「40の氏族」という意味のほうが適切である。

日本語名のキルギスは、ロシア語表記の「Киргиз」に由来する。

独立時に、キルギスのロシア語表記・英語表記は、キルギス語の自称に基づいた КыргызKyrgyz に改められたが、日本語ではそのままキルギスと呼び続け、正式国名の日本語名はキルギスタン共和国と表記された。その後のキルギス共和国への国名変更を経て、依然キルギスと通称されている。タジキスタンやカザフスタンなどにみられる「~スタン」とは、ペルシア語で「~が多い場所」を意味する言葉である。詳しくはスタンを参照。

本項では「キルギス」の国名を使用するが、中央アジアの研究者には正確な発音に近い「クルグズ」と表記すべき、との声もある。

 

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国際関係[編集]

ロシアと密接な関係を保ちつつ、中国や欧米、日本などともバランス外交を展開している。ロシア主導のユーラシア経済連合集団安全保障条約に加盟している[3]

上海協力機構の加盟国でもあり、中国はキルギスを「一帯一路」の対象国を一つに位置付けている[5]。 一方で、経済の過度な対中依存や中国人の流入などへの不満から反中デモも起きている[6]

日本は1991年12月28日に国家承認し、翌1992年1月26日に外交関係を樹立。大使館は日本が2003年1月27日に、キルギスが翌2004年4月にそれぞれ置いた。日本はキルギスに政府開発援助(ODA)を提供し、ビシュケクに「キルギス日本人材開発センター」を開設した[3]

地理[編集]

キルギスの衛星写真

キルギスの地図

国土全体の40%が標高3000mを超える山国。国土は東西に長く、中国との国境には天山山脈が延びる。南に位置するタジキスタンに向かってパミール高原が広がる。

国土の中央など東西に山脈が走り、国土を数多くの峡谷に分断している。最高峰は、中国国境にそびえるポベティ山(Pobeda または Jengish もしくは 勝利峰、7439m)、ついでハン・テングリKhan-Tängri または Kan-Too、6995m)である。4000m級の峰は珍しくない。各都市の標高は首都ビシュケクが800 m、フェルガナ盆地に位置するオシュが963 m、イシク湖畔のバルイクチが1610 m、カラコルが1745 mとなっており、ナルイン州の州都ナルインは2044 m、中国やタジキスタンとの国境に近い南部のサリタシュは3170 mもの高地に位置している。

主な河川は、シルダリア川支流のナルイン川。主な湖は国内北東部に位置するイシク湖 (Isik-Köl)。東西180km、南北60km、周囲長700kmに及ぶ。湖面の標高は1600m。イシク湖とナルイン川は水系が異なる。

ビシュケクと第2の都市オシュ、中央部のナルインにはソ連共和国時代に大規模な灌漑施設が敷設されているため、綿花を中心とした耕作に向く。これらの灌漑地はシルダリア川、ナルイン川の支流から水を得ている。

気候[編集]

隣国のカザフスタンや中国とは異なり、国内に砂漠は存在せず、この地方の中では気候に恵まれている。人の居住に適した東西に伸びる渓谷部分はケッペンの気候区分では、夏季に雨が少ない温帯地中海性気候 (Cs) に相当する。これは、イタリアローマアメリカ合衆国サンフランシスコと同じ気候区である。山地は亜寒帯湿潤気候 (Df) 、特に高地は高山気候 (H) となる。天山山脈をはさんで南方の中華人民共和国と、テスケイ・アラ・トー山脈英語版を挟んで北方のカザフスタンには、ステップ気候 (BS) と砂漠気候 (BW) が広がる。

実際に降水量を比較すると、天山山脈の100km南方に位置する中国新疆ウイグル自治区喀什(カシ、カシュガル)の年降水量は60mmだが、ビシュケク(北緯43度、標高800m)の降水量は450mmに達する。これはローマやサンフランシスコと同水準である。ビシュケクの平均気温は、1月に-20度、7月に30度で2017年度は7月に最高気温43度、2月に最低気温-31度を記録している。

地方行政区分[編集]

キルギスは7つの州 (oblast) と1つの特別市 (shaar) から成り立つ。州はさらに地方 (raion) に分かれる。地方長官は中央政府が任命する。aiyl okmotu と呼ばれる自治体は、最大で20程度の集落から構成されており、選挙で選ばれた村長のほか議会が設置されている。

主要都市[編集]

経済[編集]

色と面積で示したキルギスの輸出品目

農業および牧畜鉱業が主である。農業は主として輸出品目にもなっている綿花タバコの栽培が活発に行われている。鉱業は水銀アンチモンなど。1997年に採掘がはじまったクムトール鉱山は、世界屈指の金鉱山である。また水銀(ハイダルカン鉱山)は2002年のデータで世界第3位の産出量を誇っている。

ソ連から独立後は、観光産業に早くから注力する。旧ソ連邦でも先駆けてヨーロッパや日本からの観光目的の入国に際し、査証不要を打ち出した。

キルギスは石油製品、天然ガスを輸入し、水力発電による電力、葉タバコ綿を輸出している。ただし、金の輸出が急速に伸びている。2000年における輸入相手国は、ロシア、ウズベキスタン、カザフスタン、アメリカ合衆国、中華人民共和国の順。輸出相手国は、ドイツ、ウズベキスタン、ロシア、中華人民共和国、スイス。キルギスの対日本への貿易は2012年の財務省貿易統計によると輸入57.6億円(機械類及び輸送用機器、自動車、建設用・鉱山用機械)、輸出0.8億円(アルミニウム及び、同合金)となっている。

キルギスに対する2000年における主要援助国(団体)は、日本アジア開発銀行世界銀行アメリカ合衆国国際通貨基金の順である。日本の援助額は5500万米ドル。

通貨はキルギス・ソムである。

交通[編集]

国内にはバス航空網が敷かれている。外国との間にはフラッグキャリアキルギスタン航空が、ビシュケクのマナス国際空港からアジアヨーロッパ各国に就航しているほか、同空港には各国の航空会社が乗り入れている。

鉄道は首都ビシュケクからバルクチまでの国内線の他、ビシュケクとロシアカザフスタンとの間に国際列車が運行されている。

またマルシュルというバスがありそれが国民の足となっている。ビシュケク市内では10ソム(約16円)で乗ることができ、遠距離移動の際には便利となる一面を持つ。タクシーも走っており、日本と比較すると安価で乗ることが出来るため利便性は高めである。

なお、キルギス国内で走行している車両の70%は中古の日本車である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/キルギス#歴史

 

キルギスの歴史

キルギスの歴史   (ウィキペディアより)

キルギス人Кыргыз、Kyrgyz)は、主にキルギス共和国を中心として中央アジアに分布するテュルク系民族。自称はクルグズ。キルギス共和国の約260万人のほか、周辺の旧ソビエト連邦諸国や中国新疆ウイグル自治区などにも数十万人が住み、中国55少数民族のひとつに数えられる。

イェニセイ・キルギス[編集]

史記』などの古代中国の歴史書に名前が見られる堅昆(けんこん)が、キルギスの名で記録された最初の民族集団と考えられている。彼らは南シベリアイェニセイ川上流域で遊牧生活を行い、匈奴に服属していた。その後、同じ地域にいた民族として記録される契骨(けいこつ)もやはりキルギスの名を記録したものである。当初彼らの風貌は、背が高く、白い肌を持ち、青い目を持つと記されていた。これらのことから、キルギス人の祖先は、コーカソイドであると言われている(ただし、現在のキルギス人とは関連性があるかどうかは不詳である)。

代には黠戛斯(かつかつし)として記録され、はじめ突厥(テュルク)、のち回鶻(ウイグル)に服属していたが、840年に決起してイェニセイ川から南下し、回鶻を滅ぼした。しかし、回鶻に代わってモンゴル高原を支配することはできず、その後もキルギスの名を持つ集団はイェニセイ上流域に留まったようである。13世紀チンギス・カンモンゴル帝国を建てるとこれに服属した。

天山キルギス[編集]

現在のキルギス人は天山山脈、パミール・アライ方面に居住している人々を指す。この天山キルギスと古代にイェニセイ川流域に割拠したイェニセイ・キルギスとの間に関係性があるのかについて、これまでにさまざまな議論がなされてきた。その中でS・アブラムゾンはこの問題について3つの仮説があると指摘した。

  1. ペルンシュタムの説 – イェニセイ・キルギスが10世紀以上の年月、幾波にもわたる民族移動を経て天山地方に移住してきた。
  2. ビチューリン,ワリハノフ,アリストーフ,マルグランの説 – キルギス人は古代からもともと天山地方に住んでいた。
  3. ペトロフの説 – イルティシュ川にいたキマク・キルギス或いは東部キプチャクがイェニセイ・キルギスのアイデンティティーを受け継いでキルギスの名を冠し、天山地方に移住した。

いずれにせよ、天山キルギスはこの後モンゴル帝国の支配下でモンゴル的要素を受け入れ、中央アジアへ進出後のカザフノガイ的要素、ウズベクタジクといった中央アジア的要素を受けついで現在のキルギス人形成に至る。

中央アジアのキルギス人は、17世紀頃、近隣の民族の影響を受けてイスラム教に改宗したが、オイラトの立てたジュンガル帝国に服属した。ジュンガルの崩壊後は、最終的にロシア帝国の支配下に入る。

イェニセイ川流域に残ったキルギス人は、現在のハカス人などの祖先となったと考えられている。

ロシア革命後[編集]

キルギス人が独立した民族として一つの自治体をつくったのは、ロシア革命後の1924年ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の管轄下でカラ・キルギス自治州が置かれたことに始まる。その後、キルギス自治ソビエト社会主義共和国1926年)、キルギス・ソビエト社会主義共和国1936年)がソ連の構成国としてであるが建てられた。

独立[編集]

1991年、ソ連が崩壊すると、キルギス人はキルギスタン共和国を建国し、CIS(独立国家共同体)に参加、国際連合にも加盟し(1992年)、名実ともに独立を果たした。1993年には現在のキルギス共和国に改称する。

キルギスのユルト19世紀後半)

キルギスの遊牧民(19世紀後半)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/キルギス人

https://ja.wikipedia.org/wiki/キルギス#歴史