観光案内 ビシケク、ウスカタ、ブラナ等

キルギスの観光案内      (出典不明 観光小冊子か?)

(2000年頃訳2018年4月一部修正)

観光歴史その2

1.ビシケク市 マナス像周辺

観光のためには、まず共和国の首都ビシケクから旅が始まります。ここには、ガイドブックに載っているたくさんの記念像と名所があるからです。最初に、マナス叙事詩の伝説の英雄に関係がある広場から旅を始めましょう。キルギスでは、1995年にマナス叙事詩の1000年を祝いました。叙事詩に関わる彫像群は、国立音楽堂前の広場にあり、特に厳粛な気持ちにさせてくれます。

ビシケク 音楽ホール前のマナス像19年6月
ビシケク マナス像 中央マナス、左カニケイ、右バカイ  19年6月

彫像の中央には、馬に乗っているマナスの像が、ひときわ高い台の上に立っています。高さは21メートル、材質は銅です。像の作者は、マナスの姿に優しくて公平で勇敢なリーダーについて、民族のイメージを表現しました。彫像家が、マナスに神話の竜が彫ってあるよろいを、威力と偉大さのシンボルとして着せたのは偶然ではないでしょう。

優雅で比ゆ的な像の内容を、横にいるマナスの妻「カニケイ」とマナスの助言者「バカイ」の像が豊かに表現します。すらりとしたカニケイが女性美と高徳のイメージを、バカイが知恵と心優しさを表現しています。

さらに、過去と現在の叙事詩伝承者たちの胸像が、叙事詩の世界へ人を導きます。彼らは、ナイマンバイ・バリコワ、トゥヌベカ・シャピーエワ、サグトゥバイ・オロズバコワ、サヤクバイ・カララエブです。きれいな緑の芝生と対照的な赤い花崗岩で、彼らの容ぼうを彫ってあります。

ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月
ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月 右がサヤクバイ

彫像群の中央には噴水を設置してあり、これらの製作者は、彫像家トルグンバイ・サティコブと建築家ベチョンキンです。

マナス叙事詩が、民族の中に独自の人気を持ちつづけながら、キルギス人の精神生活に同一化しましたから、この像がキルギス民族の文化の部分を形にしています。広大な物語の重要な趣旨は、キルギス民族の結集と独立への希望です。マナス叙事詩世界の民族にある叙事詩の詩歌の中に特別な位置を占めています。この叙事詩の不変の人気は、すばらしい芸術的な内容と詩の適格さ、磨き上げた言葉、比ゆ的性格付けで叙事詩の出来事と社会的生活を目の前にあるように見ることができるためです。

 

2.優しい姿 ウスク・アタの仏陀         (チュイ州)

ビシケク市の南東75キロにあるウスク・アタの谷は、素晴らしい自然で有名です。蒼い山肌で緑の木々の中にある山々、山あいを白い筋になって流れる渓流、何世紀も経たもみや松、草原や花、自然の霊気に満ちた空気、鉱物を含む温泉源―これらは全部、天が与えた恵、母なる自然の豊かな贈物で、昔から人々の心を引きつけています。

中央アジアの民族は、いつも泉を崇め、神聖なものとして崇拝しました。アラシャンという神聖な泉で病を治すために、長い道のりを貿易の隊商や参拝者が越えました。今でもここに温泉地が営業していて、治したい人々が途切れずやってきます。

温泉の手前で、昔の芸術家が石に彫った「母女神」の絵が客を迎えます。ここで旅人たちは、心を世間の奔走から解放し、至福に満ちながらある儀式をしました。幸福を与える仏陀と会う前に、絵を芳香油で磨いたのです。

仏陀の画いてある石は、泉の少し上に位置しています。信者たちは、仏陀の姿が現代の見物人のために分かりにくいと思っています。とはいえ、絵の主要な点は、きれいにはっきりと保たれています。幸福を与える仏陀は、蓮の花の上に座わり無限の輪で囲まれて、何世紀もの過去から人々のまなざしの前に現れます。

ウスカタ 仏陀の像 19年6月
ウスカタ 仏陀の像 19年6月

芸術家は、120*113センチの面に仏陀と今はわずかに見える五つのチベット文字の銘を彫りました。仏陀は仏教の伝統的な蓮の花の上に座っている聖像の姿で表しました。この銘は、伝統的な仏教(ラマ教)の様式として解読されました。このことについては、最初にロシアの東洋学者ベセロフスキが19世紀の終わりに記述しました。

20世紀の初めにH.H.パントゥソフは、仏陀の絵についてキルギスでのいけにえを供える儀式について記述しました。キルギス人がブルハンという神(昔、チュルク人とキルギス人たちは、中央アジアとモンゴルの仏教の神をブルハンと呼びました)を神聖なものとして崇拝して、水の神をアラサンと名づけ、呪術を使ったり家畜をいけにえに供えたりしました。仏陀の絵は8世紀の作だと、近代の研究者たちは確認しています。

イシク・アタの絵は、温泉源にある仏教の聖なる場所を示していると考えることができます。優れた芸術家が神聖な絵を画いたのは、場所の神聖さを強調するばかりではなく、やはり、泉に来る人たちに時代と世代の関係について、そして仏陀の賢明な教えについて思い起こさせるためです。

 

3.ノボゴロド町の遺跡(クラスナレチカ遺跡)     (チュイ州)

昔、この町は「ナベカト」といわれ、「新しい町」という意味でした。中世にいろいろな言語、中国語、アラビア語、ペルシア語で書いた資料が、シルクロードの通路にあったテンシャンの貿易センターのスヤブという大きな町について触れています。町の大きさと要塞の強固さ、用水堀にさらさら音をたてていた水、建築家と画家と手工業者との芸術の全部が外国人を驚かせました。さらにこの町の中で、異なった宗教を信仰した、仏教徒、ゾロアスター教徒、ネオストリアン教徒、マニ教徒、土地の自然崇拝者などの様々な民族であるソグジャ人、トハリ人、チュルク人、シリア人、土地の部族などが、平和と調和の中に暮らしているのはなにより驚かせました。何万人もの人で満ちている多神教の町が人々の住居でした。

クラスナヤレチカ遺跡の見物者は、古代の住宅地の規模と広大な小高い丘、壊れた建物の長い土塁と町の擁壁に驚かされます。廃墟の空間が想像を呼び起こしたり、伝説や神話を思い出させます。これは、科学的な資料と合わせて、古代の町の生活風景を思い起こさせてくれます。今、遺跡となっているところに6世紀に住宅地が造られました。初めここは、貿易の通路に別々にあった強固な城でした。城の周りに手工業品や貿易品を売る店、仕事場、礼拝所がだんだんとできて、建物と財産を守るため町の周りに外壁を造りました。城と二つの地区(シャヒリスタン)とは別に、個人の住宅に壁をめぐらせた地域とで町が拡大していきました。

今も残っている住居を発掘した結果、進んだ手工業の製造品や建築が発見されました。農業と貿易と手工業が経済の基礎でした。

 

4.ブラナ       (チュイ州)

トクマク市の南西12キロのところに、中世にカラハニド(940~1210年)の首都だったバラサグンという町の遺跡があります。ブラナという名前は10~11世紀の回教寺院の塔からきています。

ブラナの塔 19年6月
ブラナの塔 19年6月

キルギスの歴史でカラハニド朝の時代は、封建関係の進展、経済、貿易、政治において最高の時代でした。また、チュルク民族の起源と文化、言語の高まりの重要な段階でありました。まさにその時代に、東洋の古典となる有名な作品を二人のチュルク人が書いていました。バラサグン生まれのユスフ・ハネハジブは、叙事詩「クタドグ・ビリグ(利益を与える知識)」を、そして偉大な学者ムハマド・カツガリは、チュルク語方言の最初の百科辞典「ヂバヌルガット・アタ・チュルク」を書きました。

ユスフ・バラサグニは、ここに1015年または1016年から1070年まで住んでいました。バラサグニは知名な詩人で、教養が高く、ヒューマニストでチュルクの古典文学の創始者として詩歌の世界で有名でした。50歳で叙事詩「クタドグ・ビリグ(利益を与える知識)」を書き、芸術性の高い思想と理想を表しました。

バラサグン町は25平方キロで、中心は四角な要塞と市街地の二つの部分に分かれていました。そこには、手工業者、商人、農民、市民の家がありました。町全体は2列の壁で囲まれ、町を川が流れて、四方八方に水道管と水路が引かれていました。ブラナタワー(ジャミの回教寺院の尖塔)が遺跡の東側にあり、その隣に宮殿と王朝の墓があります。ブラナタワーは、高さ4メートルの六角形の台、高さ18メートルの円柱形の塔、そして地中の強固な四角な土台の三つの部分からなっています。この塔は、地震で元の高さの半分だけ残っています。当初の高さは46メートルぐらいでした。ブラナタワーは、中央アジア建築の名作であるウズゲン、カリャイ、そして一番優美なウズベクのワブケント・ミナレットと同列に並ぶものです。

 

5.敬意の証   P・セミョーノブ・テンシャンスキーの記念像(イシククリ州)

ビシケクからイシククリに向かって行くと、イシククリへの入口北側に「偉大なP.P.セミョーノブ・テンシャンスキー探検家に。キルギス民族より1982年」という銘がある銅像があります。記念像は、小高く盛土した上に建てられて、盛土の前面にイシククリ湖の外形が彫られたプレートがあります。プレートの両側にある階段を上がっていくと、記念像に着きます。

盛土の左右にある芝生には、昔のチュルク人が石から作った彫刻がいくつか置いてあります。記念像は、キルギス製の鞍を乗せた馬の手綱を持っている探検家の姿となっています。制作者V.E.ゴレボイは、帽子を手に持ち湖の美しさに見とれている学者の姿で造りました。設計者N.A.ソコロブは、記念像を軽快で活動的な配置にしました。

P.P.セミョーノブ・テンシャンスキー(1827~1914)は、すぐれたロシアの探検家であり、また植物学者、昆虫学者、社会的な活動家、ペテルブルグ科学アカデミーのロシア地理協会やほかのヨーロッパ科学協会の名誉会員でした。彼は中央アジアの研究に大きな貢献をしました。1856~57年、彼は天山に旅行して探検と研究を始めました。彼は初めて湖を測量して、湖の成立について予想を述べ、またイシククリの歴史と考古学上の遺跡に着いて記述しました。テンシャンスキーの科学遺産は、ロシアばかりでなく世界の文化として時代に残っています。

彼は、ロシアとキルギスとの政治分野にも有効な結果をもたらしました。イシククリのキルギス人はロシアの忠実な同胞になったのです。彼は、ロシア民族からキルギス民族へ初めての公使として、また偉大な学者として優れた足跡を残しました。

 

6.描かれた岩の野外博物館    (チョルポン・アタ市)(イシククリ州)

チョルポン・アタの郊外にたくさんのユニークな岩が置かれています。絵を描かれた岩は、絵の野外博物館となっています。絵は全部で900くらいあります。

石を撒き散らした広い草地へ道路が敷かれ、青い湖を背景にして、黒い岩は様々な色彩できらきら輝いています。こんなにたくさんの岩について、どうして集まっているか説明することができません。学者たちは、この謎を解決しなければならないでしょう。絵は主として、角を持った山羊が背を折り曲げてサーベルのような形に、また渦巻き線のように描かれています。ある岩には動物をいけにえにしているところが、他の岩にはラクダを引いた隊商たちの姿、馬に乗って獲物を追跡している姿や競争の様子がはっきり見えます。

別の岩では、2、3人が大きな鹿を狩りたてています。1人はもう弓を張って、他の人(畜産業の人かもしれない)の近くに犬がいます。別の岩には、山羊の後ろに追いついた狼の姿があります。古代の芸術家たちが描いた絵の的確さが、現在の見物人を驚かせます。書き入れた技法には、線刻と点刻の2種類があります。大部分の絵がスキタイ・シベリア動物的な姿で描かれました。

考古学者たちが、野外博物館の区域に2,3の塚を発掘しました。掘り出したものによって、大部分の絵がサーキ・ウスニという時代、紀元前千年から紀元1世紀に画かれたと鑑定しました。ここは、当時の原住民の青銅器時代から中世期までの生活と神話を反映した崇拝の聖所であったと推測されています。

チョルポン・アタ以外に、サイマル・タシ、アクチュンクル岩屋、また他の所にも多くの遺跡が残っています。チョルポン・アタの野外博物館は、中央アジアで一番多い集積地のひとつとなっています。しかし、この遺跡は損失の危険があります。自然現象によって、ある石の部分が割れて落ちたりして、多くの絵がもうはっきり分からなくなりました。でも多くの場合は、古代文化の遺跡に無知な人々が自分のサインや絵を画いて壊しているのです。

 

 

 

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