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キルギスのカルチャーショック 第3部7 

キルギスのカルチャーショック 第3部7     2019年6月 日配信

2019年4月~6月

キルギス20年記念の続きを少し。

1.動物の不思議な行動

①子猫が10キロ以上の旅を

知人の家に子猫が2匹もらわれてきましたが手がかかるので友達の家に頼むことにしました。行った先は車で30分ほどもかかる所でしたが何と子猫たちは歩いて戻って来たのです。行った先が嫌だったのでしょうか、途中車や野良犬の危険もあったのによく戻ったと驚いたり感心したり。

②元の家が恋しくて涙を流す犬

近所で犬が欲しいと言われ自宅の犬をあげた知人がいました。庭も広いし環境が良くなったはずなのに元の家に戻りたいと毎晩鳴いて涙も流すほどだったとか。ついに近所から返されて元気になりました。どうして狭い庭の方がいいんですかね。

③私の膝に乗って寛ぐ猫

知人の家に産まれて間もない子猫が拾われて来ました。撫でてやったらいつの間にか私の膝に乗って休むようになりました。最初はチョコンと乗っていたのに段々大きくなって私の太腿からはみ出す位になっても乗って来ます。落ちそうになると爪を立てて掴まるのでイテテ・・。

 

2.中央アジア日本語弁論大会

先日4月27日に第23回中央アジア日本語弁論大会が開催されたと聞き20年前の第3回大会を思い出しました。ちょうど私が来た年ですが大会を開催することになっているというので日本語教師が集まって打ち合わせをしました。打ち合わせ最初の話題はどうしてキルギスで大会を開催することになったのか、ということでした。どうも中央アジア大会はタシケントの大学がロシアのCIS弁論大会に対抗して第1回を実施、第2回はカザフだったので第3回がキルギスになったことがわかりました。

とにかく会場は民族大学、実施は4月下旬の土曜日と決め、会場横断幕の字は民族大学美術担当がメモ書きの日本語を見ながら拡大手書きするなどまさに手作り大会でした。当時まだ日本語教師会がなかったので大会開催を機に設立。大会前日まではポカポカ陽気で当日なんと雪が降って10cmくらい積もったのです。これはキルギスでの驚きの始まり、ショックの始まりでした。

 

3.大通りから見えるバザールは撤去された

モスソビエトと呼ばれるソビエト通りとモスクワ通り交差点に深夜営業のバザールがありました。2000年代の初めころ当事者の反対を押し切って撤去され警官隊と揉める様子がニュースで流されていました。それとミラ通りとアフンバエバ通り交差点近くにあったバザールもマナス通りとボコンバエバ通り角のミニバザールも撤去されました。大通りから見えるバザールは撤去ということでしょうか。キオスクも同様撤去され数が減りました。

(ここからはいつものシリーズです。)

4.腰痛予防

私は疲れると腰が重く感じ危険信号とわかるので休養します。ユーチューブでたまたまNHKの番組「試してガッテン」を見たら腰痛対策が出ていました。寝る前に4種類のストレッチ体操をすれば良くなる又は予防になるようです。詳しくは「試してガッテン 腰痛」を検索してご覧ください。

 

5.ロシア語のニエット

ロシア語で「いいえ」という意味で否定を表現する言葉「ニエット нет」があります。この発音は「ニエットゥ」が正しいですが「ニエッ」と語尾を「ト」それもはっきり言う例が多くなりました。テレビやビシケクの会話でもよく聞きます。モスクワ市民の間で使用が増えてきたからでしょうか。首都から地方に広がるのはどこの国でも同じですね。それとモスクワの「イーイー弁」というのがあって「ヤ」と発音すべき「я  ヤ」を「イ」と発音します。例えば「日本」は「ЯПОНИЯ」で「ヤポーニヤ」ですが「イポーニヤ」になります。モスクワ方言というわけです。

 

6.日本ではあり得ないテレビ番組

ロシアのテレビ番組で生放送番組や裁判番組を毎週放送しています。生放送番組では少女を妊娠、出産させた男が出演し少女の両親に張り倒され、一方、女性の子供は俺の子だと言い張る青年が出演し相手の青年にやはり張り倒されていました。裁判番組ではスタジオに裁判法廷を作り原告、被告が登場、本物の裁判官が判定を下します。争いを好まない、争いの姿を見せたくないという日本ではあり得ない番組でしょう。

 

7.幼児の勘は鋭い

市内の移動はバスやミニバスを利用しています。車内で親に抱かれた幼児が私の方をまじまじ見ていることがよくあります。どうもいつも見ている人とは違う、外国人のようだ、と感じているのでしょうか。ばー!と挨拶すると喜んでいます。最近、長距離バスに乗った時も同じことがありました。幼児の勘は鋭い、今日は外国人に会ったなどと考えているのか、どうなんでしょう。

 

8.キルギス文字、ロシア文字

キルギス語はロシア文字(キリル文字)を使っていますが ң、ө、ү の3文字多いです。ңは「ング」という音、өは日本語の「オ」の口腔内を広げた音、үは日本語の「ウ」に近いです。言葉を例示すると

жан(ジャン)は「心、気持ち」、жаң(ジャング)は「新しい」

тоо(トー)は山、төө(トー)はラクダ

уй(ウイ)は「馬」、 үй(ウイ)は「家」です。

発音をカタカナで表記すると同じになってしまいますが実際は違います。聞いてもいまだに違いがはっきり分からないので困ります。

 

9.今年は熱水停止が早かった

例年市内の熱水が1カ月供給停止しますが今年は時期が少し早かったです。私の記録では今まで5月20日前後から6月20日前後でしたが今年は5月6日前後から1か月でした。6月は暑くてシャワーを使いたいので早まったのは良かったです(私のアパートには電気温水器がないので)。変更になったのはどうして?来年もそうなのか?ご存知の方は教えてください。

 

(キルギスのカルチャーショック第3部8 に続く)

キルギスのカルチャーショック第3部6 

キルギスのカルチャーショック第3部6

2019年4月作成

キルギス20年記念第2弾です。1999年から今までに変化したこと、しないことを列挙してみます。

1.変化したこと

①車の渋滞、路上駐車が多くなった

市内の車は10倍以上になりました。最初の頃、ソ連、ドイツ、日本の中古車がゆっくり走っていて数は少ないし渋滞など起こらなかったのですが今では少し事故や工事があるとすごい渋滞です。古い車は地方へ売られたのでしょう。ビシケクでは新しい車がたくさん走っています。道路も凸凹だらけでしたが良くなりました。

②物価が上がった

下記の「キルギス七不思議」に物価の例があります。2003、04年頃までは同じくらいでしたが05年のクーデター以来上がりました。アパート家賃や不動産価格も高くなりました。アパート価格は1部屋が3000~4000ドルくらいでしたが今では10倍以上。

③町は明るく鮮やかに、高層の建物も

建物は灰色にくすんで夜は明かりが少なく歩くのに苦労しました。05年の出来事から鮮やかな色が登場しましたがけばけばしい色もあります。以前は高層(?)建築物はツムデパートとアパートが2棟ほどでした。買い物は個人商店やキオスク、後はバザールへ。やがてベータストアやキャラバン、ドルドイプラザが開店しました。

④外国企業の宣伝が急増

最初にテレビで聞いた外国企業の宣伝はコカ・コーラだと思います。さすが早い、一番乗りだと感心しました。

⑤外国人料金

ソ連時代の習慣?外国人からは割増料金を取るカフェやレストランが多かったです。そんな店は早く潰れましたけど今はもうないでしょう。

⑥夏はより暑く冬はより寒く

去年、一昨年は特に暑く寒くなりました。以前は40度の暑さが続くことはなかったし昼間のマイナス10度もそうです。もっとも昔は雪が1メートルくらい積もったそうなのでこれでも暖かいのかもしれません。

⑦キルギス語使用が多くなった

町の買い物などがロシア語主体からキルギス語主体になりました。ミニバスに乗ってロシア語で言うと「え!」と聞かれることが多くなりました。地方から移って来た人たちが多くなりキルギス語への意識が高くなったのでしょう。しかし育った環境からキルギス語は苦手と言うキルギス人は多いです。両親がロシア語で育ち学校もロシア語主体だとやはりそうなります。

⑧イスラム式服装が増えた

05年のクーデターはオシュ州出身の人たちが起こしました。オシュ州はウズベキスタンに国境を接していてビシケクよりイスラム教が厳格です。クーデター前後にビシケクに移って来た人たちが多いのでスカーフ、ロングスカートの女性が目立つようになっています。

⑨バザールは毎日の人出が多くなった

これも05年のクーデター以降人口が増えました。オシュからクーデターに参加した人たちはバザールで働いて決行の時期を待っていたそうです。そのまま残ったり地方から来る人たちも増えて人口が増加。平日は閑散としていたバザールは毎日にぎわうようになりました。キルギス人は遊牧時代の移動テントの感覚でアパート1部屋に10人近くが寝起きして生活するようです。この様式で親戚が集まって来ます。

⑩日本人会が設立、大使館、JICA事務所が

日本人会規約をみればわかりますが設立は2000年と思いました。当時の名簿には20人くらいしか登録してなかったですがその後大使館、JICA事務所が拡大充実して増えました。当初日本大使館はなく日本センターがアルマータの日本大使館への取次事務を行っていました。ビシケクの大使館は当初アッケメホテル内にありJICA事務所はゴイン向かいの建物にあったのを覚えています。

2.変化しないこと

①腹が出ている体型

肉食が原因で若い人でも腹が出ていて男性はズボンのベルトから肉がはみ出しているのをよく見ます。女性もどうしてと思うくらい太りますね。

②席を譲る

これはソ連時代の良い習慣です。バスで老人や幼い子連れなどにすぐ席を譲ります。

③運転手がタバコを吸う

室内で禁煙は良い習慣ですがなぜかバスの運転手が運転中に吸って乗客に文句を言われます。仕事中の労働者は吸ってもいいと言うことでしょうか。最近公共の場での飲酒を罰する法律ができたそうですが運転手の喫煙を罰する法律を作ってほしいです。

④ニュースは2か国語で

テレビニュースは同じ内容でキルギス語、ロシア語と2回放送します。インタビューに答える人が両方話せればいいですが片方だと翻訳されることになります。

⑤信号のない道路を横断

車が増え危険になったのに相変わらず道路を渡ります。私も同様に渡るようになったのは困ったことです。

⑥時間を守らない

キルギス人は半日単位で生活しているのでしょう。約束時間の5分や10分遅れは誤差のうち。時間を過ぎたので電話するとまだ家にいたりします。もっとも日本人が細かすぎると思います。色々な面で日本は世界的にみると特殊な国です。

⑦車の罰金

毎日見る道路警察(略してマイやガイと言います)の検問。昔罰金は20ソムで値上がりして30ソムになったのは知っていますが今はいくらなんでしょう。違法駐車を取り締まってほしいと言っても管轄が違うからだめ。

⑧エイズセンターの証明書

エイズセンターで検査して証明書を受け取る時に20年前と同じで手書きなので時間がかかる。受付はコンピューター入力しているのにどうして手書きなんだと。ソフトがないのか、もしかしたら証明書は手書きでないと無効となっているかも。大学の契約書類は手書きでないとだめですから。

⑨テストの答えを聞く

学校でも大学でもテストの答えを友達や何と先生にも聞く、教え合うことは変わらないです。テストの前は教え合っても当日も教え合うのは何か勘違いしているんじゃない?

⑩バザール商法

バザールなどでいつも同じところで買うと、どうせまた来るだろうということか悪い物を売ったりお釣りを品物で寄こすということはよくあります。そういう店はもう行きませんが日本とは大違いです。

⑪新しい店はできても

カフェや商店など新しい店ができても半年しないで閉店するのは相変わらずです。派手に宣伝して最初に儲けようとするので客は二度と来ませんね。どうなるかわからないから早く儲けようとするのはキルギス人気質でしょうか。

⑫大事なことを教えない、知らないと言わない

キルギス人に質問すると聞かれたことだけ教えて関係する大事なことは言いません。まさかこんなことを言わないなんてと後で驚くのです。それとソ連時代に知らないと言うなと教育したのでしょうか道を聞いても間違ったことを教えます。知らない、わからないと言えばいいのに。

⑬1カ月の温水停止

5月から1か月の温水停止は相変わらずです。5月はもう暑いのでもう少し早い時期にやったらどうかと思いますが。ソ連時代からでロシアも同様だそうなのでキルギスだけ止めることはなさそうです。

⑭歌手の口パク、テレビ番組はロシアのパクリ

歌手の口パクはロシアでもそうなので当分なくならないでしょう。テレビ番組ではタレントがサーカス演技をする、一般人が1分の特技をする、生放送の番組、最近では対談形式の番組をパクっています。形式は似ていますが予算も時間もないのでしょう内容がありません。

3.危なかったこと

ついでに危なかったことです。このシリーズで以前書きました。

1)頭上から街路灯が

2)トロリーバスを2回停めた

3)アパート大家が泥棒だった

4)クーデターの狙撃現場近くを通った

5)知人の飼い犬に噛まれた

 

4.キルギス七不思議

下記はこのシリーズの元となった文章でキルギス紹介のため日本にいる知人たちに送信しました。

キルギス七不思議

1998年8月に初めてキルギスに来てから、不思議だと思った事項です。  1999年10月

1.日本にもいるぞ、という顔がたくさん、でも日本語を話さない。

日本人と似ている、どう見ても日本人、という顔がたくさんいるけれど、キルギス語やロシア語で話している。不思議です。中国や韓国の人より日本人に似ているのは、どうしたことでしょうか。

2.日本にもあるぞ、という物がたくさん。

うどんに似た「ラグマン」、餃子に似た「マンティ」、肉まんに似た「サムス」、おこしに似た「チュクチュク」、炊き込みご飯に似た「プロフ」などがある。楽器のコムスは、三味線と同じ三弦楽器である。米では、オシュに近いウズゲンで作っている「ウズゲン米」は小豆色で、赤飯の色である。この米を見たとき、「赤飯だ」と叫んでしまった。日本人が赤飯にしているのは、これが原型ではないかと思う。

中国系ドゥンガン人の踊りは、盆踊りの手の形にそっくりだ。夏に食べる「アシランフー」は、冷しソーメンという感じがする。ドゥンガン人の作る麺は、手で引き伸ばしていく。ラグマンにはこの麺がよく合う。似ているものがたくさんあって、日本人のルーツを感じてしまう。

3.風が吹くと天気が変わる。気温の変化が大きい。

風は、いつもはあまり吹いていない。そよ風程度しか吹かないけれど、木の枝をゆするほど吹くときがあって、その後に天気が変わる。雨や雪になることが多い。風が吹くと桶屋がもうかる、ではなくて、天気が変わるビシケクである。気温は、昼間でも日が隠れると、10度以上気温が下がってしまう。夏では、昨日は40度、今日は20度で肌寒いことがよくある。

4.車道をどこからでも横断する。信号の間隔は短い。

交通量が多くないとはいえ、信号にはお構いなし、途中からでもどんどん渡る。日本と違って、人間優先だからなのか、また、車はゼイゼイ言いながら走っていて、スピードが出せないし、という条件があるからなのかわからない。母子が手をつないで、道路の途中から渡っていくのを見ると、親子心中かと思ってしまうのは、私だけでしょうか。

信号は、「青」から「青」の間隔が10秒ちょっとくらいしかない。「青」が点滅してから「黄色」に、そして、すぐ「赤」に変わる。人は「青」が点滅すると渡り始める。車は点滅すると停止する。間隔が短いので、このタイミングでないと反対側まで渡ることができない。途中で信号が変わってしまっても、道の中央で待っていれば、車は避けてくれるし、すぐ次の信号になる。渡りはじめのタイミングに慣れるのが大変で、最初は地元の人がいるときにしか渡らなかった。

5.食料品は安い。

大体、日本の10分の1から20分の1くらいの値段である。野菜など、きれいにして売ってはいないし、米はごみやシイナが混じっているが、じゃがいも、にんじん1k10円、トマト1k5~10円、米は1k75~100円くらいで売っている。乾めん1k40円、紅茶100g50円。

カフェで、二人で昼食を食べて300円くらいだろうか。ラグマン50円、ペリメニ70円、ナンと紅茶で10円、皿に肉とご飯で120円くらい。レストランは少し高い。食料品以外は、相対的に高くなる。それでも電気製品は、日本より安いものがトルコ、韓国、中国からたくさん入っている。

6.バザールは大小たくさん、キオスクはそこら中にある。

市場(バザール)では、朝市のような形式で食料、日用品、電気製品などを売っている。大きなバザールはルイノックと呼ばれていて、市内に四つある。小さなバザールは、あちこちにある。新聞、飲み物、パンなどは専門のキオスクがあり、交差点やバス停などにたくさん立っている。

7.ホテルの庭で、羊が草を食べている。

首都の大通り、日本でいえば新宿辺りを馬に乗った人が渡ったり、大通り脇の歩道で羊が草を食べている。田舎の雰囲気をたくさん残している。「イシククリホテル」の庭で、牛が草を食べていた。大学近くの歩道で、よく羊や牛が草を食べている。人が歩いているのに、街路樹をリスが行ったり来たりしている。こういう感じは、非常に好ましいと思う。アルマーティでは車や人が多くて、羊がのんびり草を食べるどころではない。

8.道路に穴が開いている。下を向いて歩こう

歩道の真中にあるマンホールのふたがなくなっていて、ぽっかり穴が開いている。それから、橋の踏み板が落ちていたりする。夜は明かりもなく暗いので、落ちる人もいるだろう。夜は特に、昼間でも下を向いて歩かないと危険。

9.町は、ひまわりの種で埋まっている。

歩きながら、ぽりぽりと食べている。最初は、何を食べているのかわからなかった。セミチカという、ひまわりの種を炒ったものを、歯で殻を割って食べる。

上手に食べるが、殻をそこら中に捨てていくのが困る。町が埋め尽くされるのでは、と思うほどだ。

(以上 キルギス七不思議)

5.カルチャーショック第1部 初回序文

以下は「キルギス七不思議」を元にこのシリーズを書き始めた初回序文です。きっかけは学生にキルギスで日本と違う所、驚いた所は何ですか、と聞かれたことでした。たくさんあるよと言いながらすぐには答えられずどうも生活に慣れてしまったなと感じたからです。書き疲れてこのシリーズが停まるとその都度刺激を与えてくれる人が現れて書き続けています。最初は日本にいる知人にキルギスを紹介するという観点で書き始めましたが少しずつ変化しています。

キルギスのカルチャーショックⅠ           2013年5月

キルギスに来たばかりの頃、七不思議として様々な驚きを書きました。十数年経って慣れて驚きが薄れてきたので、今までの驚きを思い出しながら改訂、加筆し、続編を書きました。生活や習慣は住んでいないと知り得ません。そんな内容を書いてみました。       (以上 初回序文)

 

キルギスのカルチャーショック第3部7 に続く

キルギスのカルチャーショック 第3部5

キルギスのカルチャーショック 第3部5                                    2019年2月~3月

今回は私のキルギス20年特集号です。2月にふと気が付いたのですが’99年にキルギスに来て20年経っていました。大使館の方に20年間日記を気温付きで書いていますとお話したらビシケクの気温を20年前と今と比較してほしいと大きな課題を頂戴しました。それで日記を読み返し四苦八苦して作成した次第です。

ただし気温の測定は自前の温度計をベランダの日影などに置いて測ったもので気象台などの資料ではありません。当たらずといえども・・という程度ですので。比較は2000年~03年と16年~18年の期間で12月~2月の冬期と6月~8月の夏期としました。FDにある99年の日記が古くてUSBにコピーできないので2000年からになります。それと夏などあちこち出かけてデータが少ないので一部省略してあります。

1.日中の月間平均気温(注釈をつけた以外はビシケク市内で測定)

2000年  1月不明        2月 5.4度    3月11度

6月29.4度     7月33.3度    8月データ不足

00年 12月 5.2度  01年1月データ不足    2月 6.7度

01年  6月31.5度     7月データ不足    8月データ不足

01年 12月 3.9度  02年1月 5.9度    2月 9.1度

02年  6月28.5度     7月データ不足    8月29.3度

02年 12月 1.1度  03年1月 7.5度    2月 7.8度

03年  6月30.1度     7月28.9度    8月29.5度

15年 12月 6.5度  16年1月 6.5度    2月11.6度

16年  6月27.5度     7月30.3度    8月28.3度(6月~ソクルク)

16年 12月 5.0度  17年1月 3.7度   2月4.2度(12月~アラミジン)

17年  6月31.2度     7月36.2度    8月33.1度(6月~ビシケク)

17年 12月 6.7度  18年1月 1.3度    2月 6.8度

18年  6月28.4度     7月34.2度    8月31.2度

夏は01年6月、17年と18年の7月、8月が目立って高いです。17年18年には38~40度が続きました。01年は35~36度が続き38℃の日はありましたが連続していません。

冬は18年1月が目立ちます。-10度が続きました。01年、03年も-10度の日はありましたが連続していません。

 

2.1999年から02年の出来事

ついでに1999年から02年の出来事を列記してみます。

1999年  4月第3回中央アジア日本語弁論大会 最初のキルギス主催

8月バトケン州日本人技師人質事件

市内のガスが全面停止(この年に限らず毎年2回、1回2週間ほど停止。国が輸入

代金を払えないため供給元が元栓を閉めるのです。これは何年まで続いたでしょうか。)

2000年  1ドル47~48ソム   アパート家賃は1部屋で月50ドル以下

デパートはツムだけだったのが7月にチュイ通りのベータストアが開店。入口が自動

ドアで感激しました。(ハイアットホテルもこの年営業開始?)

市内の銀行一行が倒産

2001年  1ドル49ソム前後

市内のガスが隣国輸入元から1カ月以上停止

市内の大通り沿いにあるバザールやキオスクが次々撤去された(モスソビエトに深夜

営業のバザールがありましたがこれも撤去)

4月マナス通り、5月チュイ通りの舗装工事実施

前年に続き銀行が一行倒産

2002年  1ドル46~48ソム

エルキンディック通り改修。歩道を改装し遊具やゴミ箱を設置

上記期間以外ですが

2005年3月  1回目の大統領追放クーデター(アカーエフ初代大統領を追放)

2010年4月  2回目の大統領追放クーデター(バキエフ2代目大統領を追放)

1回目、2回目ともベータストア、ドルドイプラザを始め市内の大型、中型店舗が略奪放火の被害に遭いました。2回目の後、臨時大統領に女性が就き3代目、2年後の選挙でアタンバエフが当選し4代目、現職は昨年の選挙で当選した5代目大統領になります。

3.物価

物価では99年当時のアパート家賃が旧いアパートなら一部屋月40ドル以下でした。この頃も商品の価格を付けていたのですがデータが見当たりません。記憶では砂糖1k13ソム、紅茶1箱100g15ソム、米1k15ソム、食用油1リットル25ソムだったかと。100ソムあれば使い出がありました。

手元のデータでは07年が一番古いですが砂糖1k25ソム、紅茶1箱100g25ソム、米1k30ソム、食用油1リットル50ソムです。アパート家賃1部屋で50ドルくらいです。

 

カルチャーショック第3部6 に続く

 

 

 

キルギスのカルチャーショック第3部4

キルギスのカルチャーショック第3部4      2018年11~12月

徒然なるままに・・の心境で書いているこのシリーズですが日本人会の読者?を意識して記事がだいぶ変化してきました。今回は食べ物の記事が多いようです。ここで訂正とお詫びです。前回第3部3の9.キルギスでは何が起こっても・・・の項で「西はチムール帝国」と書きましたが「西はコーカンド・ハーン国」の間違いでした。ちゃんと調べないといけません。

 

1.今日はお祭りです

日本語を話すキルギス人に祝日について聞いてください。これはどういう日ですか、と。答えは大体「お祭りです」と返って来ます。お祭り?うーん?となりますがキルギス語で祝日とお祭りは一つの言葉「マイラム」なのです。キルギス人の先生だとしっかり教えないのでしょう。祝日とお祭りを分けて覚えないといけない。

 

2.スターリン時代の闇

11月7日ビシケク市から南に行ったチョン・タッシという所で追悼式があり大統領がお悔やみの言葉を述べました。ここは1930年代スターリンの命令により殺された120人ほどのキルギス人(他民族もいた)を埋葬している場所です。スターリンは当時の社会的指導者を監禁し暗殺する命令を出したわけで作家チンギス・アイトマトフの父親も含まれています。これ以外にもキルギス全体で何千人以上もスターリン時代に行方不明になり帰らなかった人がいるようです。旧ソ連の各国で同様なことが行われ全体では4000万人が殺されたようです。

チンギス・アイトマトフの作品で登場人物がスターリンは死んだか、と待ち望んでいる記述があります。ソ連第一書記は何と終身制だったので反体制派を粛清し続ける恐怖政治を終わらせるには直接殺すか死を待つかしか方法がなかったのです。ソ連の国民がこぞってスターリンの死を待っていたのでしょう。現在、国家指導者の終身制は北朝鮮とトルクメニスタンだけですか。ところで毛沢東は6000万人を殺したそうです。上には上がある。

 

3.袋を息でフー

イスラム教では人の吐く息はきれいなものとなっているのかどうか。キルギス人、ウズベク人など店で品物を渡す袋を息で膨らめますね。パンや菓子などを買った時これをやられると顔をしかめてしまい買うのを止めようかと一瞬考えます。バザールなどではその日最初に売れた品物の代金に息を吹きかける、というか「プ、プ、プ」と唾を吐く真似をします。次も売れるようにと言う縁起担ぎの動作ですがこれを見ると人の息はきれいだと理解しているのでしょうか。

 

4.即席ラーメンの作り方

なんだ即席ラーメンか、となりますがされど即席ラーメンおいしくなる作り方はあります。特別な材料などを使うのではなく麺とスープを別に調理するだけです。しかしこれだけで随分違います。それと麺を茹でる時、湯が沸騰する少し前(30秒か1分か)乾麺を入れて麺に水を吸わせその分だけ時間を短くします。麺は麺、スープはスープで作って合わせる。これをお試しください。もうやっていますか。

 

5.マグロ刺身もどき

市内あちこちで塩漬けニシン(ロシア語はシリョウトカまたはシリョウトキ)が売られています。来たばかりの頃、三枚に下して塩抜きし刺身で食べるとマグロのようで美味いと教えられました。刺身に飢えていたので早速食べたらうーん!美味い。ただし骨が多いので頭、内臓を取ったら背骨を尾の方から頭の方に向けて取ると大きい骨は取れます。小骨はさらに取ることになります。それと塩抜きは2時間以上、水を流しながら浸けて置く必要があります。

他に冷凍シシャモ(ロシア語はモイバ)を開き、頭、背骨などを取って三杯酢に漬けてもイケます。これも骨抜きは尾の方から背骨を外せばいいです。ニシンはキロ160ソム位、シシャモは140ソム位でマグロブロックの1400ソムに比べてずっと安いです。ただし頭付きなので身はキロ300ソム以上になるでしょう。

 

6.日付が10.10.10

昔アパートの大家に家賃を払いに行って領収の記載をしてもらった時です。何気なく見ていたら日付を10.10.10と書きました。おー!そうか、今日は2010年10月10日だったのか。ロシア語、キルギス語の日付は「日・月・年」の順に書きますから日本語と逆になります。しかしこの日はどちらでも同じ数字が並ぶわけです。大家が来年は11.11.11があって再来年は12.12.12があると言いました。気が付かないで生活していたのは良くないと反省しました。

 

7.日本語の難しさ

日本語を学習する人にとって難しいことの一つに助数詞があります。1枚、2本、3台、4個など数字の後に付ける単位ですがロシア語にもキルギス語にもないので覚えるのは大変です。30や40はありますからこれは何を数える時にと分けて覚えるのは無理でしょう。まずは5種類くらいを覚えれば何とか。

日本語の上手な知人がいて外人とは知らせず日本人とメールをしていました。最初は気づかれなかったのですがある時「え、外国人?」と聞かれました。原因は助数詞で日本人なら間違えるはずがない所を間違えたのです。例えば「テレビを1枚」とか「リンゴを3台」という風に。普段使っているので気が付きませんが日本語は難しいです。

 

8.中国製品は重さでチェック

ビシケク郊外のドルドイバザールに輸入され市内のバザールや商店に出回る中国製家電製品。粗悪品、不良品、在庫品などが多くて買う時は余程注意しないといけません。中国に何年か住んでいた人から聞いたのですが中国本土では不良品を重さで見分けているそうです。例えば電気ポット。あまりに軽いのは材料が悪いから止めて少し重いくらいのを選ぶのです。軽いと板金は薄いしコイルも材質が悪い、ということです。全部に当てはまるわけではないですが中国製品は重さで判断するのが一つの目安かもしれません。

 

9.懐中電灯は枕元に

先日起きて明かりを点けたら暗いまま。電球が切れたかと思いましたがどうも停電のようです。いつも枕元に置いてある懐中電灯を点けてろうそくを探し点火。昔は停電が多かったので懐中電灯、ろうそくは常備品になっています。懐中電灯は充電式が使いやすいでしょう。乾電池式は電池が切れたり数が足りないとお手上げですから。もちろん忘れず充電を。

 

10.中国からの寄贈バス

もう10年位前でしょうか、中国から友好の証として大型バスが何十台も寄贈され市内各路線に配備されました。ちょうどいい路線バスがあったので利用していましたがいつの間にか来なくなりました。今運行しているのはたぶん7、21、35、38番の路線だけ。当初の半分くらいです。原因はバスがすぐ故障してしまい直す部品がないからであちこちの駐車場に放置されています。中国は廃車するバスを修理点検もせず寄贈したのです。これでキルギス人の中国嫌いがまた高まったかも。

 

11.熱水供給センターの責任者

ニュースでちょっと見ただけなので確かではありませんが通称「テツ тец」と呼ばれる熱水供給センターの最高責任者はロシア人でした。ソ連崩壊後独立したキルギスからほとんどのロシア人技術者が帰国し、その後釜にあまり知識のないキルギス人が就きました。しかし「テツ」は自前では稼働できなかった。責任者にはキルギス人しか任命されないと言う制度を作ったもののここだけは例外的にロシア人としたのではないでしょうか。ロシア人は技術をキルギス人に伝えなかったか伝えられなかった。設計・建設技術でいえばキルギス人がどの程度の技術を持っているのか疑問なので新しい高層建築物には住みたくありません。

 

12.アジの開きもどき

5.の項で書いたのとは別の食べ方です。塩漬けニシンの頭、内臓を取り除き開いて塩抜きします。背骨を尾の方から頭の方に向けて取るのはマグロもどきの時と同様。刺身より長い時間塩抜きしないと塩っぱくなるのでご注意を。次に天日干し、陰干しします。半日くらい干したらオーブンかフライパンで焼きます。これもなかなか美味いと思います。

 

13.しめ鯖

市内のバザールや魚の店で鯖(ロシア語はスクンブリア)を売っています。以前は魚と言えば塩漬けニシンかシシャモくらいだったのでインターネットで鯖やマグロを売っている店を見つけた時は感激しました。その後バザールでも売るようになったのは歓迎すべきことです。

鯖は解凍して三枚に下してから刺抜きなどを使って小骨を取ります。次にタッパーに米酢(濃度5%位 ゴインに売ってます)と砂糖少々、昆布少々を入れ漬けます。20分ほど置いて酢をこぼし後は冷蔵庫で熟成します。一晩おけば食べられますからお楽しみください。心配な寄生虫のアニサキスは冷凍輸送されてくるため心配ありません。厚生省の基準では-20度以下48時間以上の処理です。

 

14.キルギス語を習いましょう。

キルギスにいるのだから習うのはキルギス語、ですか。挨拶だけでも話せれば相手の印象が違います。ビシケクではロシア語の使用割合が多いですが地方に行けばキルギス語主体です。それにキルギス周辺に仲間の言語がたくさんあるので旅行でも使えます。カザフ、ウズベク、ウイグル、トルコ、アゼルバイジャンなどが兄弟語で30~50%位は共通になります。カザフ語よりトルコ語の方が近いような。

私もキルギス人の先生とキルギス語を習ったのですが教科書はロシア語で記載、先生は日本語を知らない、ということで頭がパニック状態になりました。まずキルギス語・ロシア語辞典で調べて次に露和辞典で引くので学習は進みません。少し慣れるまで半年くらい経ちました。若い頃ならもっと早かったでしょうけれど。

 

(キルギスのカルチャーショック第3部5 に続く)

キルギスのカルチャーショック 第3部 3

キルギスのカルチャーショック 第3部 3     2018年10月~11月

いつものことですが話題のまとまりがなく突然キルギス国歌が出てきました。頭に浮かんできたことを書いているので・・

 

1.酷寒、酷暑の日は

初雪情報などの続きになります。日中気温で-10度以下を酷寒、38度以上を酷暑とした資料です。なお資料は自前の寒暖計によるので公式記録ではありません。

酷寒では

今年1/25 -12℃、1/26 -15℃、1/27~28 -10℃ になりました。

その前は2008年1/19~24 -10℃、2007年 12/26~28 -10℃ でした。15年間を見ても-10℃は少ないです。

酷暑では

今年7/10,11 38℃、7/22,23 38℃、8/11 38℃

2017年 7/4~9 40℃。(これはオシュですがビシケクも同程度です。)

7/23~24 38℃、7/25~27 40℃、7/28~8/1 38℃、

8/7~10 38℃~41℃ (ビシケク)

例年7月、8月に何日か38℃くらいになりますが連続にはなりません。これほど続いたのは1999年から初めてでした。2017、18年は何十年かの気候変動周期のピークにあるのかもしれません。

 

1-1.去年から気温差が大きい

手持ちの寒暖計で10月26日、27日は気温35度でしたが昨日11月1日は4度になり雪が。1週間で30度下がりました。さすがにキルギス人、ロシア人も体調を崩しています。去年から気候変動が大きいです。

 

2.ロシアの歌手 アラ・プガチョウワ

ロシアの人気女性歌手アラ・プガチョウワをご存知ですか。「百万本のバラ」という題名で加藤登紀子が訳した元歌を歌っている歌手で60歳すぎても精力的に活動しています。この私生活が凄くて何年か前はロシアの有名な若手芸人(物真似、司会)マクシム・ガルキンと結婚、その前はウクライナ出身のロシアで活躍する有名な歌手キルコロフと結婚。

3年位前ガルキンと男の子と女の子の双子の子供が産まれました。え!でもプガチョウワは60歳過ぎなのにどうして?それは現代の先端技術を利用したのです。自分の卵子を冷凍保存しておきガルキンの精子と人工受精、出産は代理母という訳です。金があればできますね。子供たち、リザとガリもyoutube に登場しています。

 

3.丸亀製麺

何年か前モスクワに行った時、丸亀製麺と書いた看板を見つけ入りました。味は期待していなかったので一番安い釜揚げうどんを食べましたがやはり旨くない。麺が作り置きで少し湯通ししただけなので何が釜揚げかと言いたくなりました。客は結構いたので知らなければこれが美味いというのでしょう。店員に日本人はいなくて多分ほとんどキルギス人。キルギス語で話して通じましたから。

 

4.白菜が通年で出現

何年か前から白菜が通年で出回っています。以前は10月から1月の限られた期間だけだったので出回るとたくさん買って漬物にしていました。白菜はどこから入って来るのか。ウズベクか中国南部かもしれません。煮物、炒め物、漬物などにしていつも食べられるので嬉しい限りです。

 

5.キルギス国歌

まだ書いてなかったなと突然キルギス国歌が出てきました。旧ソ連からの独立後1992年に制定され歌詞は三番までありますが一番と繰り返しの歌詞を記載します。アラバエバ大の学生と一緒に訳しました。なおキルギス文字はロシア文字を使用していますが(ң )(ө)(ү)の3文字多く、これらはロシア文字の(Н)(О)(У)として読めば近いです。以下のカタカナは読みで和文は訳です。歌ってみましょう。

1.Ак мөнгүлүү  акса  зоолор,  талаалар,

アク モングルー アクサ ゾオロル タラアラル

白い氷河に 覆われた 岩山よ、ステップよ

Элибиздздин  жаңы  менен  барабар.

エリビズディン ジャング メネン バラバル

われらは 共に生きてきた 心は 一つになっている

Сансыз  кылым  Ала-Тоосун  мекендеп,

サンスズ クルム アラトースン  メケンデプ

幾世紀も 氷河を抱く 山々のもとに 住み

Сактап   келди  биздин  ата-бабалар.

サクタプ ケルディ ビズディン アタババラル

我らは 先祖の土地を 守って来た

 

(繰り返し)

Алгалай  бер  кыргыз  зл,

アルガライ ベル クルグズ エル

さあ 進め キルギス人よ

Азаттыктын  жолурда.

アザットゥクトゥン ジョルンダ

自由な 道だ

өркүндөй  бер,  өсө  бер,

オルクンドイ ベル オソ ベル

さあ 発展させよう、 さあ 変えていこう

өз  тагдырын  колунда.

オズ タグドゥルン  コルンダ

自ら 昔からの 運命に

 

6.一番最後の商品をどうぞ

日本語では「一番新しい」ですがロシア語を直訳すると「一番最後の」となります。英語でも「一番最後の」と使っていると思いました。「新しい」という言葉はありますが「一番新しい」とは言いません。言語ごとの表現感覚の違いですか。「一番最後の」商品、では要らないと言いたくなりますね。

 

7.ロシア語の「世界」と「平和」は

「世界」と「平和」は同じ言葉「мир ミール」です。ビシケクの大通り「プロスペクト ミーラ」は「平和大通り」ですね。今はキルギス語で「ТЫНЧ  トゥンチ」、やはり平和通りです。「ТЫНЧ  トゥンチ」は静かな、平穏なという意味もあります。

日本語で「身につける」という意味の動詞は「着る」「履く」「かぶる」などたくさんありますがロシア語は一つです。食べ物に熱を加えて料理する「焼く」「炒める」「あぶる」もロシア語は一つ。それで日本語学習者は苦労します。

 

8.色の「青」と「緑」

学生がキルギス語の「青」という言葉は昔「緑」の意味だったと言いました。今は「青」の意味でも使っているが昔は「緑」の意味だったそうです。これは日本語と似ています。日本も昔、「青」は「緑」の意味でした。

「緑」という言葉は新しいのでどうも変更できないですね。次の単語で「青」は「緑」の意味ですが「緑」に変えると・・。「青果物」「青物」「青果市場」「青くさい」「青海苔」「青信号」「青虫」「青カビ」「青畳」「青葉」「青山」など。

 

9.キルギスでは何が起こっても不思議ではない

これは私が言っているのではなく在留の方からも聞いている言葉です。何が起こるかわからない、何が起こっても不思議ではないと。大きくは大統領追放の2回のクーデターがあったし、小さくは手続き書類や生活習慣など、えー!と思うことが多く起きます。

ビザ手続きでいえば国の都合で手続きが遅れビザ期限が切れるようになっても罰金を払えと言います。日本では他の省庁と連携措置を取りますがそういう思考ができないのか。キルギスは100年経ってどうなっているのか。

キルギス人は19世紀後半の帝政ロシア時代に自らロシアとの同盟を望み出て国を認めてもらったと言います。当時は西のチムール帝国(ウズベキスタン)、東の中国清国、南のインド、北のカザフと四方の大国に脅かされていたからです。そしてソ連になり1920年代は自治州、1930年代にソ連の構成国になりました。ソ連が崩壊した後はかつて国を創ろうとした精神はどこへやら。特権を利用し公金横領、収賄に一生懸命になっている人ばかり。キルギス人のみなさん、国は消えますよ。ソ連かどこかに吸収されているかも。

 

10.キルギスにもスミレが

毎日忙しく働いて移動は車となると歩道や公園の草花を見る時間がないと思います。道端をよく見ると日本にもある雑草がたくさん茂っています。さすが雑草で風や人・物の移動に紛れて世界中に広がります。スミレやタンポポはお分かりでしょうが他にナズナ(ペンペン草)、オオバコ(カエルっ葉)、シロツメクサ(クローバー)、カラスノエンドウ、スベリヒユ、クズ、オナモミ、ネナシカズラ、ヒルガオなど、まだまだあります。まずは足元を観察してください。

 

11.カレーの香辛料

10何年ぶりにカレー用香辛料を買いました。昔作ったレシピは捨ててしまったので最初からやり直しです。とりあえず1.トゥミン(クミン、ウイキョウ)、2.バディアン(シキミ)、3.クルクマー(ウコン、ターメリック)、4.グバジディーカ(チョウジ、丁子)、5.粉ショウガを買い、あと6.唐辛子、7.コショウで調合。しかしまだ足りないので8.カルダモン、9.カリツァ(シナモン)、10.ローレル、11.ガリツァ(洋辛子)を追加。まだ生ニンニクも必要です。これで調合してみます。香辛料は今回ビシケクシティーで調達しましたがオシュバザールの一角には香辛料売り場が何軒も固まっています。

 

12.ファレーリをどうぞ

何年も前から売っているのを見かけていましたが買ったのは最近です。ファレーリと呼ばれて日本ではニジマスですね。しかし日本よりずっと大型です。トクモク市で養殖してビシケクに出回っています。最初三枚に下してホイール焼きにしたら泥臭さがあってだめ。次は三枚にしてから半日薄い塩水に漬けて置いたら臭みが消え美味しかったです。私が買った店は一匹丸ごとでキロ330ソムでした。

 

13.キャッチセールスではなかった

前回、日本人か?と言って電話が来たのはキャッチセールスだったのかと書きました。しかし違いました。知り合いのキルギス人が日本人から情報を得たいと言う人に教えたのです。言ってくれればいいのに。どちらにしろ会わなかったでしょうけど。日本製品を輸入販売するらしいですが本物が手に入るのか、中国製コピー製品かも。

 

 

(キルギスのカルチャーショック 第3部 4に続く)

キルギスのカルチャーショック第3部 2 

キルギスのカルチャーショック第3部 2          2018年10月

初雪の話題を書いたら本当に降りました。関連して、集中暖房の開始・停止日、最終降雪日など日記を調べて書いてみました。今月初めは気温30度以上だったのに2週間ほどで30度下がったわけです。さすが中央アジア、いつもながら驚かされます。今回も雪の記事があるので早めに発行します。

1.集中暖房の開始、停止日等

下記のデータで降雪の前日気温を書いたのは暖かいのに降るという気温の差を表したかったためです。99年には4月25日頃に降り本当にショックでした。5月に入ってから降ったことがあるとか。その時はイシククリ湖でも降って、栽培しているリンゴの開花期だったため花が落ちてしまい大打撃だったそうです。

次の降雪は今月終わりころでしょうか。いつも2回目は間隔が開きますから。それから集中暖房はもう一度降らないと入らないでしょう。昼間の気温が0度にならないとだめなようです。なお集中暖房の開始、停止は温水配管の関係で地区により多少(2,3日)違いがあります。

(年) (初雪) (前日気温) (暖房始)   (終雪)  (前日気温)  (暖房停)

2018 10/16   14℃     ?        3/16     4℃      3/22

17   9/30    10℃    10/20        4/06      7℃      不明

16   10/18    14℃     不明        3/19      6℃     3/11

15   10/22    18℃    11/1?       4/02      8℃      不明

14   10/27    18℃    10/27       4/13      13℃      3/28

13   10/27(*) 13℃    10/27      3/09      2℃     3/25

12   10/18    14℃     不明      3/19      10℃      3/30

11   10/28    14℃    10/30      4/03     24℃     3/29

10   10/21    20℃    11/13     3月不明    不明       不明

09   11/09     8℃    11/11       3/19     14℃      3/25

08   11/11     8℃     不明      4/17     16℃       不明

07   11/09    19℃    11/09       2/27     12℃       3/27

06   11/21     8℃    11/13      4/09     25℃       3/29

05   11/14     9℃    11/02      4/05     28℃       3/26

04   10/15    24℃    11/06        4/07     10℃       4/01

(注)上記(*)の日付は、前回11/20と書きましたがこの日に雪が舞っていました。

(注)2010年3月の日記がないので日付等不明です。

 

2.宇宙船

現在はロケットで打ち上げている宇宙船ですがなんとも前時代的な物に見えるのはどうしてでしょう。それに打ち上げの度に燃料タンクや付属品を捨てるので宇宙はゴミの山になっています。宇宙ゴミ回収の話も出たり消えたりで進みません。地球の重力を脱出するためにロケットではなく別の方法が開発されればゴミは出なくなります。将来、重力子とでもいうのか重力の粒子を制御できるようになればいいのです。飛行機も重力制御になれば飛行場の滑走路がなくても済みます。

 

3.日本ではロボット犬と散歩する?

日本で試作されているロボットがニュースで紹介されるともう一般的に使われていると思う人が多いようです。日本で町を散歩する人は皆ロボット犬を連れているのか、と聞かれたことがあります。あれは試作だからと説明しましたが納得しない様子。介護ロボットや自動掃除機も登場していますから家のペットもロボット、食事や掃除もロボットが、そんな時代が来るのも近いかも。

 

4.キルギス蕎麦

昔ですが蕎麦を食べたくなってバザールのそば粒(グレーチキ)を挽いてもらい手打ちしたことがあります。つながって麺になったものの・・香りも味もなく不味い。中央アジアでは粒を茹でて食べるので麺にするにはそば粒の保存方法が合わないのでしょう。ソバは世界的に栽培されていますが、食べ方は粒で茹でる、粉にして焼くなどが大半で麺にするのは少数派。今のところ中国製、韓国製の乾麺を利用するしかないです。

 

5.サンタクロースはキルギスから?

サンタクロースはキルギスが発祥の地だ、キルギスでは「アヤーズ・アタ」と言って昔から言い伝えがある。ということでアラトー広場に学生を動員して大規模に宣伝したのは何年前だったか。今でもやっていますか?サンタクロースをキルギスでは「アヤーズ・アタ(寒さの父)」、ロシアでは「デット・マローズ(寒さのお祖父さん)」、その娘は「スニェ・グーロチカ(雪娘)」と呼ばれます。

サンタクロースの起源はキルギスだ!と思い付きで始めてすぐに終わるのではなく何十年も続ければそれなりに効果があるのに。気まぐれですから。

 

6.景品のグラスが割れていた

バザールの路上で紅茶を安売りしていました。欲しかったので買って家で見たら中に入っている景品の小グラスが割れている。これでは危なくて飲めないので捨てました。X線検査で割れているのがわかった不良品を中央アジアに輸出したのです。中央アジアは中国のゴミ箱と思っていますが本当です。バザールの安売りは要注意、何か問題がある商品です。

 

7.自動販売機

日本は自動販売機の展示会のように様々な種類がありどんどん変化しています。音声付きなどは当たり前でしょうか。しかしビシケクでは見たことはないです。空港に飲み物の販売機があったくらい。街頭に設置したら危ないでしょうね。すぐ盗まれるか金を奪われます。治安の良い日本だから設置できるともいえます。

自動販売機は24時間暖・冷の保温状態なので電力の無駄遣いと思いますがどうですか。それと販売機設置は販売会社負担ではなく設置者が機械を買取ると思ったのですが。品物が売れた時に設置者の収入になる訳なので販売会社は損がないようにできている。

 

8.村の土地を売ったのは誰?

キルギスの来たばかりの頃、学生とオシュ方面に出かけました。立ち寄った村で最近ウズベキスタンとの国境が変更になって村の土地が狭くなった。どうして変更になったのかこれについて誰も知らない、と言います。誰も知らないのではなく誰も真実を言わないのだろう。地元の役人が金欲しさに中央を巻き込んで土地を売ってしまったのではないか、などと想像しました。金のために土地を売ったのなら本当の売国奴ですが。

 

9.カルパックは正しくかぶれ

カルパック(キルギスの民族帽子)をよくかぶっています。薄い材質のは夏に、厚いのは冬にと分けていますが薄い材質は中国製の土産用なので本物ではない、本物は通気性がいいので夏も冬も同じカルパックで大丈夫と言います。私がかぶっていると、ほー、と感心して見る人が多いものの、かぶり方が間違っているようでよく直されます。裾の切れた部分を前にして外側に折ってかぶるのは知っていますがそれだけではだめ。折り方がどうの、切れた部分は正面にとか細かいです。バザールなどへ行くと似合うよ、と言ってくれる人もいて自分はキルギス人だと喜んでいます。

 

 

 

(キルギスのカルチャーショック第3部 3に続く)

キルギスのカルチャーショック 第3部 1

キルギスのカルチャーショック 第3部 1      2018年10月

このシリーズがいよいよ第3部に、第2部途中からキルギス情報という内容が多くなりました。頭に浮かんだ事柄を書いているので話題は統一されていません。頭が書くことに疲れたら休刊します。今回はなぜか酒の話題が目に付きます。

 

1.10月と4月は部屋が冷える

最近いらっしゃった方にお知らせです。今年はなぜかまだ暖かいですが市内の集中暖房は雪が降るまで入らないので、10月はアパートが冷えてきます。一雨、二雨降れば気温が15度位下がって冬に入ります。暖房器はオイルヒーターが安全で1500ソム位と思います。

年が明け3月に集中暖房が停まりますが外はまだ寒いのでこの時もアパートが冷え電気暖房器の登場となります。

それと5月の1カ月間お湯が停止するのも困ります。電気温水器の切替えを大家に聞いてください。

 

1-1.10月には雪が降る

上記記事の補足です。私はキルギスに来てから日記をつけていますがそれによると初雪は

2017年9月30日(この日はちらついただけ2回目は11月19日)、

2016年10月14日(郊外のアラミジン地区で)

2015年10月22日、   2014年10月27日、   2014年10月27日、

2013年11月20日、   2012年10月18日、   2011年10月28日、

2010年10月21日、   2009年11月 9日、   2008年11月11日、

2007年11月 9日、   2006年11月21日、   2005年11月14日、

2004年10月15日

もっと前もありますがここ15年で10月末までに降ったのは8回(9回かも)確率50%以上、見かけの暖かさに惑わされないようにしましょう。8月は夏、9月は秋、10月は冬です。

 

1-2.春分、秋分の日の楽しみ

ビシケクの東西道路、大通りのチュイ通り、アフンバエバ通りやそれに挟まれた中規模道路は真東から真西に向け造られています。それで春分、秋分の日にこれらの道路から日の出、日の入りを見ると道路端から上り道路端に沈みます。早起きするか夕方忘れずに観てください。

2.日本食カフェ

ビシケク最初の日本食カフェは10年位前に開店した亙(わたり)でしたが残念ながら閉店しました。何年かして新たに3軒開店。それが2軒閉店してしまいました。最近ソビエト通り・アフンバエバ通り交差点からソビエト通りを少し下った所に「のぶのカレー」が開店したのは朗報です。カレーやオムライスが美味しいそうです。日曜は閉店。

 

3.キルギス製本革ベルト

バザールで買ったベルトは薄い皮を何枚か貼ってあるので弱くて切れそうになりました。近くの店に持っていったらキルギス製のベルトがあると言われ中国製ベルトより高いが牛の一枚皮で何年も持つと言います。早速使っていますが使いやすいので満足しています。バザール製品は250ソム、キルギス製は700ソムなので長く使えれば割安です。

 

4.健康体操

体の各部は仕事や家事で動かしていると思っても限られた部位を同じ方向に動かしています。動かさない部位は硬くなり肩こりなどの症状が出ます。下記のような運動で普段使わない部位を動かしましょう。説明図がないのでわかりにくくてすみません。

  • 昔ギックリ腰をやった時、骨盤を動かす運動をマッサージの先生から教えられ今でもやってます。立ち位置で肩幅に足を広げ少し膝を曲げ、手を腰に当て骨盤をゆっくり左右、前後または回転運動をさせます。ギックリ腰の予防に効果あり。
  • 肩甲骨の周辺はあまり動かさないので周りの筋が硬くなると良くないと雑誌にありました。雑誌に載っていたのは立っても椅子に座ってもいいですが両手を両耳に着くようまっすぐ挙げ、次に肘を真横に肩の線まで下します。次に両手をそのままの形にして顔の前で合わせまた戻し、また合わせる動作を2,3回します。もう一度最初のように耳の横まで手を挙げ、これらの動作をゆっくり数回繰り返します。横綱土俵入りのポーズに似ています。
  • 脚の腿は普段、前後には動かしても左右には動かしません。硬くなるので運動が必要です。立っても椅子に座ってもいいですが両膝を左右に開閉して動かします。このとき両手で膝を掴み膝の動きを抑えるような力を加えます。
  • これは体操ではないですが、ジュースなどの空瓶を床に倒して脚の裏で瓶を転がしツボを刺激します。簡単で結構気持ちいいです。

どの運動も1回にたくさんではなく1日に何回か短時間行うのがいいでしょう。余談ですが相撲土俵入りの型は健康体操から始まったと聞いたことがあります。上記①の型はないですが②はあります。③も四股で動かすのと似ています。何となく納得。

5.包丁の添え手は猫の手で

キルギス人の家や料理講座を手伝ったときに包丁の添え手を見たら危ない。日本では「猫の手」の形にしなさい、と指先を曲げるように教えますがキルギス人は伸ばしたまま。危ない、指を切るぞ、と言うと切ったことがある人も多かったです。こんな使い方は世界中でキルギスだけだと言っておきましたが直してくれるかどうか。

 

6.母親は14歳

ロシアのテレビで生放送番組があります。以前、ロシアで14歳の女の子が出産とありました。これは日本のテレビでも人権問題として取り上げられたそうです。女の子の近くの村に住む男性がインターネットで知り合ったとか。番組には女の子の両親と問題の男性が出ていましたが両親はしっかりした人たちに見えました。父親は浮浪者のようなその男性を張り倒していましたね。キリスト教国なので出産するしかない。

 

7.サッカーリーグの選手交代で

キルギス国営放送のスポーツ番組チャンネルがありイギリスや、イタリアのサッカーリーグ戦を流しています。選手は刺青ばかりと書きましたがもう一つ気が付いたことがあります。それは交代で入る選手の仕草です。キリスト教徒は芝に触れ胸で十字を切り、イスラム教徒は両手で天を仰ぐようにします。日本人、韓国人は・・何もなし。

重量挙げの大会でタイかどこかの選手は両手を合わせ拝んでいました。国際試合では日本人もこうする様にしますか。

 

8.一升瓶を、マグロブロックを、機内に

今では信じられないですがニューヨークの貿易センタービルテロ事件が起こる前はこんなこともできました。日本からキルギスに帰る時、土産に持っていけと勧められ一升瓶や生のマグロブロックを機内に持ち込んで持って来たのです。

マグロブロックは、どうせどこかで没収だと思いスーパーのビニール袋に入れ手に提げて行きました。X線検査も通過し機内へ。次には没収だと考えているうちにあれ!キルギス到着。冬の時期でしたがさすがに周りは白っぽくなったものの少し削ってマグロ丼で食べました。美味かった。

一升瓶はナップザックに入れ機内へ。これも無事ビシケクへ着き皆で飲みました。そんなわけでテロ事件を憎む程度が強い私です。

 

9.オリンピックのボランティア

赤字続きだったオリンピック運営を黒字に転換したのはロサンゼルス大会だったはずです。主催者はボランティアを大募集、市民や多くの人たちが応募しました。式典担当の人は制服を自費で買ったと読みました。制服も良い思い出になったことでしょう。

2020年の東京オリンピックもボランティア大募集ですが自己負担は20万円になる?開催が決まってから災害続きの日本なので財政が厳しい、ボランティアに頼るしかない。

 

10.「う」がありますか

日本語を学習する学生などが単語を書く時に必ず質問するのが「う、がありますか。」。たとえば「こうえん」と言った時「う」を書くのか書かないのか、ということです。日本人は慣れていますが日本語学習者にとって難しいです。同じ「お」の発音でも「空港」は「う」、「通り」は「お」になるのも難しい。

 

11.寿司バーの日本酒は

昔ですが韓国系の販売店で日本酒があるけど買わないかと言われました。量り売りで1リットル500ソムだったと思います。喜んで飲んだらどうも味が・・料理酒でした。販売店の隣の寿司バーで出してるのはこれでしょう。

これも昔、キエフ通りビシケクパーク近くの酒店で「SAKE」と書いてある瓶を見つけました。メーカーがCHOYA(蝶矢)とあるので期待できないと思いつつ買いました。4合瓶で1400ソムだったか、高い!しかしこれも料理酒でした。先日この店に行ったらまた蝶矢の酒がありました。純米酒と書いてあっても料理酒かと。値段は1550ソムに上がっていました。

アルマータで飲んだ月桂冠純米酒は50ccで300ソム、高い!日本酒は自分で作るしかないのかも。しかし日本酒の仕込みは難しいです。どぶろくを造って失敗した経験あり。ワインは簡単なので次の項で書きます。

 

12.自家製ワインのお勧め

添加物なしのワインをお楽しみください。手間を惜しまなければ簡単です。ブドウ1キロで700ccくらいのワインができるはずです。ブドウをつぶす時、茎や種はそのままでも取り出してもいいです。そのままは味が強く、取り出すと柔らかくなります。

まず材料は①熟した赤ブドウ1~2キロ位(種ありは味が強くなります)②パン酵母(イースト)一般の店で売っている物で可③砂糖200gくらい④大型タッパー⑤広口瓶1個(2~3リットルの物)⑥漉し布、ガーゼ大⑦漏斗

作り方  ①ブドウをタッパーにいれ手でつぶす。 ②砂糖を加え混ぜ、次に酵母を小さじ一杯くらいふり掛ける。 ③蓋をしてなるべく涼しい所か冷蔵庫に置く。 ④翌日か次の日、酵母が働いて泡が出ているか確認する。泡が出ないと不活性酵母なので別の酵母を買いふりかける。 ⑤一日1,2回全体をかき混ぜる。 ⑥一週間くらいして泡が出なくなったら漉し布で広口瓶に絞る。 ⑦沈殿物が溜まるので一週間に一度、上澄みだけ移し替え沈殿物を捨てる。 ⑧これを4回ほど繰り返すときれいな赤ワインのでき上がり。

 

13.ロシアドラマとウオッカ

ロシアのテレビドラマや映画にウオッカを飲む場面がよく出てきます。友人を会社に訪ねて行ったら友人が職場の机から瓶を取り出し乾杯。これが警察などの職場でも出てきます。一般家庭なら当然ウオッカかサマゴン(自家製醸造酒)の登場です。ロシア人とウオッカは切っても切れない関係でしょう。しかし飲みすぎて平均寿命に影響するのではと心配するほどたくさん飲みます。キルギス人のアル中が多くなったのはロシア人の影響。ドラマや映画に働かず飲んだくれる男がいつも登場します。

 

14.新築アパートもトラブル続き

仕事で赴任され新しく建設されたアパートに住んでいる方から苦情をよく聞きます。それは停電が多い、給排水に問題がある、など基本的な問題ばかり。施工に安い中国製品など使っているか技術が悪いか。ソ連時代に造ったアパートは老朽化でトラブルが多いですが新しいアパートで問題とはキルギスの技術がないからでしょう。

 

15.慣れは怖い 道路の渡り方

最初の頃、信号のない道路を渡るな!と書いたのに今では自分が渡っています。なるべく信号を渡っているものの車が少ないと、つい。信号で止まったバスから降りて反対側へ渡ることもあります。運転手は皆渡るのを承知しているのですが、よそ見している運転手もいるかもしれません。私を真似しないようにしましょう。

 

16.犬は好きですか

学生から「犬は好きですか」と聞かれ、好きと答えたら行きましょうと出かけたのは犬の肉を出すカフェでした。犬肉のサラダ、焼き犬肉など食べましたがタレで食べるので味はよくわからないまま。行ったのはだいぶ昔。カフェの場所はアフンバエバ通りとカールマルクス通り交差点近くですが今でも提供しているのか不明。

 

17.パン漬けの作り方

漬物がお好きな方は試してください。昔、在留の方に簡単に聞いて自己流で続けています。

材料等は ①中型タッパー(漬けるのでやや深いのが適) ②市販のパン(丸パン、角パン、黒パンなど何でも) ③最初は野菜切れ端、次からキュウリなどお好きな物を ④塩少々 ⑤唐辛子1本

作り方 ①タッパーにパンを千切って入れ、湿る程度に水を加え塩少々をふる。③塩で揉んだ野菜切れ端を漬け、唐辛子を加える。 ④タッパーを2,3日涼しい場所に置いてから切れ端を取り出す。⑤次にキュウリなど好みの野菜を漬ける。1日置けば食べられます。

留意点 ①漬けて置けばパンは分解していきます。量が少なくなったら千切って追加してください。 ②水分は上がって来るので時々天地返しをしましょう。③室温では反応が早く進み酸っぱくなるかもしれません。そんな時は冷蔵庫に入れます。

 

18.コンピューター・グラフィック(CG)

私が知っている最初のCG映画は「トロン」という題名で(40年位前か)車が道路を走るだけのものです。これはCGの試作品で何かの映画の付属で上映されました。衝撃的だったのは実写と違い、車、道路などは本当の直線、曲線で絵が動いていました。それからCGは進歩し、今では普通の映画、テレビ番組で実写に相当する精度で提供されています。

 

19.ロシアに先行できるか歌手の口パク禁止

いつもロシアテレビ番組のパクリをしているキルギスです。以前は俳優や歌手などがサーカス演技を披露する番組があり最近では生放送を真似しています。しかし制作費がないのでしょう、ゲストが出演してただ対談するだけ厚みがありません。さてロシアでもキルギスでも歌手は口パク、口と音が合っていません。これをキルギスから変えていったらどうでしょう。ロシアに先行して口パクを禁止するのです。一つくらいロシアより先に実行するのがあってもいいのに、無理ですかね。

 

20.目次を作成

このシリーズが第3部に入ったので第2部までの目次を作りました。シリーズが20ありそれぞれ20前後の記事があるので今まで気にせず書いていましたが同じ内容もあります。よく書いたなと感心してばかりはいられません。これからも情報提供に努力しなければ。

(カルチャーショック第3部 2に続く)

観光案内 ビシケク、ウスカタ、ブラナ等

キルギスの観光案内      (出典不明 観光小冊子か?)

(2000年頃訳2018年4月一部修正)

観光歴史その2

1.ビシケク市 マナス像周辺

観光のためには、まず共和国の首都ビシケクから旅が始まります。ここには、ガイドブックに載っているたくさんの記念像と名所があるからです。最初に、マナス叙事詩の伝説の英雄に関係がある広場から旅を始めましょう。キルギスでは、1995年にマナス叙事詩の1000年を祝いました。叙事詩に関わる彫像群は、国立音楽堂前の広場にあり、特に厳粛な気持ちにさせてくれます。

ビシケク 音楽ホール前のマナス像19年6月
ビシケク マナス像 中央マナス、左カニケイ、右バカイ  19年6月

彫像の中央には、馬に乗っているマナスの像が、ひときわ高い台の上に立っています。高さは21メートル、材質は銅です。像の作者は、マナスの姿に優しくて公平で勇敢なリーダーについて、民族のイメージを表現しました。彫像家が、マナスに神話の竜が彫ってあるよろいを、威力と偉大さのシンボルとして着せたのは偶然ではないでしょう。

優雅で比ゆ的な像の内容を、横にいるマナスの妻「カニケイ」とマナスの助言者「バカイ」の像が豊かに表現します。すらりとしたカニケイが女性美と高徳のイメージを、バカイが知恵と心優しさを表現しています。

さらに、過去と現在の叙事詩伝承者たちの胸像が、叙事詩の世界へ人を導きます。彼らは、ナイマンバイ・バリコワ、トゥヌベカ・シャピーエワ、サグトゥバイ・オロズバコワ、サヤクバイ・カララエブです。きれいな緑の芝生と対照的な赤い花崗岩で、彼らの容ぼうを彫ってあります。

ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月
ビシケク マナス像横の吟遊詩人像19年6月 右がサヤクバイ

彫像群の中央には噴水を設置してあり、これらの製作者は、彫像家トルグンバイ・サティコブと建築家ベチョンキンです。

マナス叙事詩が、民族の中に独自の人気を持ちつづけながら、キルギス人の精神生活に同一化しましたから、この像がキルギス民族の文化の部分を形にしています。広大な物語の重要な趣旨は、キルギス民族の結集と独立への希望です。マナス叙事詩世界の民族にある叙事詩の詩歌の中に特別な位置を占めています。この叙事詩の不変の人気は、すばらしい芸術的な内容と詩の適格さ、磨き上げた言葉、比ゆ的性格付けで叙事詩の出来事と社会的生活を目の前にあるように見ることができるためです。

 

2.優しい姿 ウスク・アタの仏陀         (チュイ州)

ビシケク市の南東75キロにあるウスク・アタの谷は、素晴らしい自然で有名です。蒼い山肌で緑の木々の中にある山々、山あいを白い筋になって流れる渓流、何世紀も経たもみや松、草原や花、自然の霊気に満ちた空気、鉱物を含む温泉源―これらは全部、天が与えた恵、母なる自然の豊かな贈物で、昔から人々の心を引きつけています。

中央アジアの民族は、いつも泉を崇め、神聖なものとして崇拝しました。アラシャンという神聖な泉で病を治すために、長い道のりを貿易の隊商や参拝者が越えました。今でもここに温泉地が営業していて、治したい人々が途切れずやってきます。

温泉の手前で、昔の芸術家が石に彫った「母女神」の絵が客を迎えます。ここで旅人たちは、心を世間の奔走から解放し、至福に満ちながらある儀式をしました。幸福を与える仏陀と会う前に、絵を芳香油で磨いたのです。

仏陀の画いてある石は、泉の少し上に位置しています。信者たちは、仏陀の姿が現代の見物人のために分かりにくいと思っています。とはいえ、絵の主要な点は、きれいにはっきりと保たれています。幸福を与える仏陀は、蓮の花の上に座わり無限の輪で囲まれて、何世紀もの過去から人々のまなざしの前に現れます。

ウスカタ 仏陀の像 19年6月
ウスカタ 仏陀の像 19年6月

芸術家は、120*113センチの面に仏陀と今はわずかに見える五つのチベット文字の銘を彫りました。仏陀は仏教の伝統的な蓮の花の上に座っている聖像の姿で表しました。この銘は、伝統的な仏教(ラマ教)の様式として解読されました。このことについては、最初にロシアの東洋学者ベセロフスキが19世紀の終わりに記述しました。

20世紀の初めにH.H.パントゥソフは、仏陀の絵についてキルギスでのいけにえを供える儀式について記述しました。キルギス人がブルハンという神(昔、チュルク人とキルギス人たちは、中央アジアとモンゴルの仏教の神をブルハンと呼びました)を神聖なものとして崇拝して、水の神をアラサンと名づけ、呪術を使ったり家畜をいけにえに供えたりしました。仏陀の絵は8世紀の作だと、近代の研究者たちは確認しています。

イシク・アタの絵は、温泉源にある仏教の聖なる場所を示していると考えることができます。優れた芸術家が神聖な絵を画いたのは、場所の神聖さを強調するばかりではなく、やはり、泉に来る人たちに時代と世代の関係について、そして仏陀の賢明な教えについて思い起こさせるためです。

 

3.ノボゴロド町の遺跡(クラスナレチカ遺跡)     (チュイ州)

昔、この町は「ナベカト」といわれ、「新しい町」という意味でした。中世にいろいろな言語、中国語、アラビア語、ペルシア語で書いた資料が、シルクロードの通路にあったテンシャンの貿易センターのスヤブという大きな町について触れています。町の大きさと要塞の強固さ、用水堀にさらさら音をたてていた水、建築家と画家と手工業者との芸術の全部が外国人を驚かせました。さらにこの町の中で、異なった宗教を信仰した、仏教徒、ゾロアスター教徒、ネオストリアン教徒、マニ教徒、土地の自然崇拝者などの様々な民族であるソグジャ人、トハリ人、チュルク人、シリア人、土地の部族などが、平和と調和の中に暮らしているのはなにより驚かせました。何万人もの人で満ちている多神教の町が人々の住居でした。

クラスナヤレチカ遺跡の見物者は、古代の住宅地の規模と広大な小高い丘、壊れた建物の長い土塁と町の擁壁に驚かされます。廃墟の空間が想像を呼び起こしたり、伝説や神話を思い出させます。これは、科学的な資料と合わせて、古代の町の生活風景を思い起こさせてくれます。今、遺跡となっているところに6世紀に住宅地が造られました。初めここは、貿易の通路に別々にあった強固な城でした。城の周りに手工業品や貿易品を売る店、仕事場、礼拝所がだんだんとできて、建物と財産を守るため町の周りに外壁を造りました。城と二つの地区(シャヒリスタン)とは別に、個人の住宅に壁をめぐらせた地域とで町が拡大していきました。

今も残っている住居を発掘した結果、進んだ手工業の製造品や建築が発見されました。農業と貿易と手工業が経済の基礎でした。

 

4.ブラナ       (チュイ州)

トクマク市の南西12キロのところに、中世にカラハニド(940~1210年)の首都だったバラサグンという町の遺跡があります。ブラナという名前は10~11世紀の回教寺院の塔からきています。

ブラナの塔 19年6月
ブラナの塔 19年6月

キルギスの歴史でカラハニド朝の時代は、封建関係の進展、経済、貿易、政治において最高の時代でした。また、チュルク民族の起源と文化、言語の高まりの重要な段階でありました。まさにその時代に、東洋の古典となる有名な作品を二人のチュルク人が書いていました。バラサグン生まれのユスフ・ハネハジブは、叙事詩「クタドグ・ビリグ(利益を与える知識)」を、そして偉大な学者ムハマド・カツガリは、チュルク語方言の最初の百科辞典「ヂバヌルガット・アタ・チュルク」を書きました。

ユスフ・バラサグニは、ここに1015年または1016年から1070年まで住んでいました。バラサグニは知名な詩人で、教養が高く、ヒューマニストでチュルクの古典文学の創始者として詩歌の世界で有名でした。50歳で叙事詩「クタドグ・ビリグ(利益を与える知識)」を書き、芸術性の高い思想と理想を表しました。

バラサグン町は25平方キロで、中心は四角な要塞と市街地の二つの部分に分かれていました。そこには、手工業者、商人、農民、市民の家がありました。町全体は2列の壁で囲まれ、町を川が流れて、四方八方に水道管と水路が引かれていました。ブラナタワー(ジャミの回教寺院の尖塔)が遺跡の東側にあり、その隣に宮殿と王朝の墓があります。ブラナタワーは、高さ4メートルの六角形の台、高さ18メートルの円柱形の塔、そして地中の強固な四角な土台の三つの部分からなっています。この塔は、地震で元の高さの半分だけ残っています。当初の高さは46メートルぐらいでした。ブラナタワーは、中央アジア建築の名作であるウズゲン、カリャイ、そして一番優美なウズベクのワブケント・ミナレットと同列に並ぶものです。

 

5.敬意の証   P・セミョーノブ・テンシャンスキーの記念像(イシククリ州)

ビシケクからイシククリに向かって行くと、イシククリへの入口北側に「偉大なP.P.セミョーノブ・テンシャンスキー探検家に。キルギス民族より1982年」という銘がある銅像があります。記念像は、小高く盛土した上に建てられて、盛土の前面にイシククリ湖の外形が彫られたプレートがあります。プレートの両側にある階段を上がっていくと、記念像に着きます。

盛土の左右にある芝生には、昔のチュルク人が石から作った彫刻がいくつか置いてあります。記念像は、キルギス製の鞍を乗せた馬の手綱を持っている探検家の姿となっています。制作者V.E.ゴレボイは、帽子を手に持ち湖の美しさに見とれている学者の姿で造りました。設計者N.A.ソコロブは、記念像を軽快で活動的な配置にしました。

P.P.セミョーノブ・テンシャンスキー(1827~1914)は、すぐれたロシアの探検家であり、また植物学者、昆虫学者、社会的な活動家、ペテルブルグ科学アカデミーのロシア地理協会やほかのヨーロッパ科学協会の名誉会員でした。彼は中央アジアの研究に大きな貢献をしました。1856~57年、彼は天山に旅行して探検と研究を始めました。彼は初めて湖を測量して、湖の成立について予想を述べ、またイシククリの歴史と考古学上の遺跡に着いて記述しました。テンシャンスキーの科学遺産は、ロシアばかりでなく世界の文化として時代に残っています。

彼は、ロシアとキルギスとの政治分野にも有効な結果をもたらしました。イシククリのキルギス人はロシアの忠実な同胞になったのです。彼は、ロシア民族からキルギス民族へ初めての公使として、また偉大な学者として優れた足跡を残しました。

 

6.描かれた岩の野外博物館    (チョルポン・アタ市)(イシククリ州)

チョルポン・アタの郊外にたくさんのユニークな岩が置かれています。絵を描かれた岩は、絵の野外博物館となっています。絵は全部で900くらいあります。

石を撒き散らした広い草地へ道路が敷かれ、青い湖を背景にして、黒い岩は様々な色彩できらきら輝いています。こんなにたくさんの岩について、どうして集まっているか説明することができません。学者たちは、この謎を解決しなければならないでしょう。絵は主として、角を持った山羊が背を折り曲げてサーベルのような形に、また渦巻き線のように描かれています。ある岩には動物をいけにえにしているところが、他の岩にはラクダを引いた隊商たちの姿、馬に乗って獲物を追跡している姿や競争の様子がはっきり見えます。

別の岩では、2、3人が大きな鹿を狩りたてています。1人はもう弓を張って、他の人(畜産業の人かもしれない)の近くに犬がいます。別の岩には、山羊の後ろに追いついた狼の姿があります。古代の芸術家たちが描いた絵の的確さが、現在の見物人を驚かせます。書き入れた技法には、線刻と点刻の2種類があります。大部分の絵がスキタイ・シベリア動物的な姿で描かれました。

考古学者たちが、野外博物館の区域に2,3の塚を発掘しました。掘り出したものによって、大部分の絵がサーキ・ウスニという時代、紀元前千年から紀元1世紀に画かれたと鑑定しました。ここは、当時の原住民の青銅器時代から中世期までの生活と神話を反映した崇拝の聖所であったと推測されています。

チョルポン・アタ以外に、サイマル・タシ、アクチュンクル岩屋、また他の所にも多くの遺跡が残っています。チョルポン・アタの野外博物館は、中央アジアで一番多い集積地のひとつとなっています。しかし、この遺跡は損失の危険があります。自然現象によって、ある石の部分が割れて落ちたりして、多くの絵がもうはっきり分からなくなりました。でも多くの場合は、古代文化の遺跡に無知な人々が自分のサインや絵を画いて壊しているのです。

 

 

 

観光案内 チーグ町、サンタシ、カラコル

キルギスの昔話、伝説    (出典は「キルギス百科事典」 2000年頃訳)

観光歴史その1

1.チーグ   (湖底に沈んだサーク族、ウスニ族の町)

今、イシククリ湖があるところには、何世紀も前、村や町がありました。町の中をキャラバン隊が通ったり、立派な宮殿やかんがい施設を造られたり、市場ががやがや賑わったり、手工業者が働いたりしていました。しかし、やがてその村や町が湖に沈みました。沈んだ遺跡の秘密は、昔から学者の興味を引いてきました。

イシククリ湖に沈んだ町で、一番古い町が「チーグ」です(中国語では、チーグチェン)。チーグ、そこは中央アジアの東から来たウスニ族の最高位指導者がいる拠点でした。紀元前2000年、ウスニ族が天山の谷を侵略したとき、この指導者はサーク族の拠点を奪いました。そのとき、チーグ町を中国の旅行者、ジャン・シャンが訪れ、天山の民族とハン国の間に交流が始まりました。

ペスチャンノエ村の隣にある入り江の底に、サリブルン町の遺跡が見つかりました。残されていた材料によって、ここに一箇所だけ居住地があったことがわかりました。それは「チーグ」だったのです。学者は、沈んだサリブルン町はチーグ町であるという仮説を立てています。

残念ながら、古代のウスニ族の拠点を散歩できるのは、スキンダイバーたちだけですが、入り江の南方では流されてきた古代の焼き物を多く見つけることができます。

 

2.サン・タシ    (塚の謎)

昔からサン・タシ峠は、クンゲイアラトーからテルスキーアラトーの北裾野を越える分かれ道として使われてきました。高山の谷間には、サーク族の古墳や石で造った塚などがたくさんあります。古墳の直径は60メートルにもなります。

特に、二つ隣り合わせにある古墳が注目に値します。(小さい方は考古学者が発掘して、もうありません。)この有名なサン・タシの古墳について、「鉄のちんば」と呼ばれたモンゴルのタミルランがインドへ出征したことに合わせた伝説があります。タミルランは、出征の前に兵士が小山に一つ石を置いて、帰った時、一つ石を隣の小山に置くように命令しました。二つの塚は、死んだ兵士のために特異な記念物になりました。この伝説にちなんで、サン・タシ(数えた石)と呼ばれます。

学者たちは、この古墳を古代の遊牧民が作ったと推測していました。しかし、発掘して円形テント型の石の施設を発見した時、学者たちは驚きました。遊牧のサーク族時代のものではなく、中世期のチムール時代に属していたのです。

国内に1ヶ所だけあるこの建造物が造られた目的は、まだわかりません。発掘調査の結果を待たなければなりません。

 

 

3.N・M・プレジワルスキーの記念碑   (カラコル市)

1869年にカラコル市が設立され、町の中心にあるカラコル大学に記念碑ができました。この時代には、カラコルはロシア人やいろいろな国の人間が天山と中央アジアへ探検に行く基地でした。

1885~88年に、偉大なロシアの探検家で中央アジア研究者のN.M.プレジワルスキー滞在しました。彼は、サンクトペテルブルグから5回の探検に来て、腸チフスに感染してカラコルで死んでしまいました。プレジワルスキーの記念像は、カラコル空港の近くにあります。しかし主な記念建築物は、カラコル川が湖に入るところにある彼の墓の近くにあります。

記念碑は、岩の上部に知恵と優しさのシンボルである鷲がいる構図です。鷲のくちばしには、科学の平和的な目的のシンボルであるオリーブの枝、そして、爪には折った中央アジアの地図をつかんでいます。

岩の表面には、青銅の十字架がしっかり取り付けられました。その下には、ロシア科学アカデミーから彼の功績に贈られたメダルを大きく複製したものがつけてあります。下部には、「ニコライ・ミハイロビチ・プレジワルスキー 最初の中央アジアの研究者、1839年3月31日生まれ、1888年10月20日死亡」と書いた銘があります。記念碑は中央アジアで最初のモニュメントです。

1957年4月29日には、記念館を造ることが決まりました。墓と記念碑の近くに記念館ができました。ここには、研究の成果物や彼の遺品が展示してあります。

 

4.ドゥンガン人のモスク    (カラコル市)

カラコルに立派な記念的建築物のモスクがあります。モスクの建築家たちは、ドゥンガン人伝統的な木造建築の経験と技術を使って造りました。モスクを彫刻家、レンガ職人、屋根屋など30人以上の職人で造りました。

1907年に建築家が、天山もみ、カラガチ(コブニレ)、ポプラ、クルミなどの材料の用意を始めました。準備に3年間かけ、1910年にモスクの骨組みを組み立てました。大きさは24.8m*23mで、中央アジアのモスクと比べるとそれ程大きくありません。

モスクは、東側と西側に2列の柱がある長方形をしています。南側と北側に窓を作って、西側にはありません。そこには、神に祈る人たちが顔を向けるからです。外部に彫刻した模様には、民族の神話にある怪物やフェニックス、ライオンを装飾に使っています。民族の伝説に従って、彼らは建物を災害と悪魔から守っています。

建物の色、材料、屋根の色は、厳しく決められました。木造部分と柱が赤色、壁が濃紅色、屋根は緑色、さらに、彫刻した模様には、ぶどう、ざくろ、梨、桃など植物の模様は緑色、神話の動物は黄色の二色で塗りました。

神話によると、それぞれの色には意味があります。赤は災害と悪魔から守り、黄色は富と偉大さを表し、緑色は幸福と幸運を持ってくるのです。

 

5.健康に良いアクスウ温泉   (カラコル市)

カラコル町から15km、天山のもみやりんごや落葉樹が生える谷間に景色のいい温泉があります。イシククリ湖東部の人々は、昔からアクスウ温泉の効能についてよく知っています。住民は温泉を崇拝し、アルマ・アラシャン(リンゴの効能がある温泉)と呼んでいたことから聖所と言われています。

1857年6月9日から10日にかけ、ロシアの探検家P.P.セミョノフ・テンシャンスキーが訪れ、後に「回想録」に書いています。その後、プレジバルスキー町が建設されたので、イシククリに来た多くの研究者や旅行者が温泉を訪れました。

19世紀の終わりに、温泉が中央アジアや西シベリアにも有名になったとき、地区の行政は市民や訪れる人々のために木造の建物を建てました。近所のキルギス人はユルタに住んで、ここを訪れる保養客に肉やクムス(馬乳酒)を提供していました。

 

ビシケク市について

2018年4月配信

ビシケク市について          (2000年頃作成、未完)

1.概要   2.自然   3.歴史

 

1.概要

キルギス共和国の首都ビシケク市は、キルギス山脈の北 チュイ盆地にあります。標高は700~900メートルで、面積は127.29平方キロ、人口は67万2千人(1989年)です。

市は、レーニン、アクチャブリ(10月)、ペルバマーイ(5月1日)、スベルトロバの4つの行政区からなっています。

市の郊外には、国際空港のマナス空港があります。

市内には、大統領府を始め博物館4、劇場4、図書館5、市場4箇所があります。

 

2.自然

年平均気温は10.2度C、年降水量は409ミリ、年平均湿度は60パーセントです。

月平均気温は1月が-4.6度Cで最も低く、7月が24.5度Cで最も高くなっています。

1930年12月には最低気温-38度C、1983年7月には最高気温43度Cを記録しました。

年降水量の53パーセントが3月から6月にかけて降ります。1930年8月30日には、1日の降水量70ミリを記録しました。

 

 

3.歴史

都市計画と建築様式(1984年発行 フルンゼ百科事典 より)

ビシケクの区域と周辺には、6~14世紀のものとみられる都市遺跡がある。これらは、粘土などをこねて作った壁または強固に盛土した壁に囲まれた居住地であった。住民の住居は生レンガで作られ、天井はれんがで丸型、または木で平らに作られていた。遊牧民族の住居は、移動式丸型テント(ユルタ)だった。1825年にコウカンド国のピシペクという要塞ができて、西の防壁の近くに次第に粘土壁の住居ができた。

1878年に都市建設の最初の計画が作成され、街区の1区画を1~1.5ヘクタールにすることになった。街の広場、公園、並木道、軍事病院など、またいろいろな役所のために場所が決められた。東のはずれは、回教寺院、バザール、干草用地、刑務所用地、兵舎に割り当てられた。都心にニコライ教会と練兵所が配置された。

住居は、粘土などをこねたり日干しレンガで作った一階建ての家がほとんどだった。少し経って二階建てレンガの家が現れた。住居はステップ地方にある代表的なもので、簡単な作り方だった。

ソビエト政権の最初から都市計画と建築様式の新しい芸術的手段の探求が始まった。都市建設に際しての選択で、道路を緯度子午線に合わせた。20年代に生産のためのいくつもの建物、たとえば皮革やレンガ工場、インテルゲルポ協同組合などが建てられた。

20年代の終りには、都市建設での興味深いできごととして円形街区(今日の労働者街区)の出現があった。平地に放射状の輪を造り、田舎の風景を取り入れて都市生活の快適さを創出する試みをした。

最初の住宅建設は、同名の産業協同組合にちなんで「インテルゲリポ」地区となった。個々の住宅規模は大きな規格となった。

最初の大規模な建築は、キルギス自治州人民会議の建物(今の歴史博物館)(1927年建 設計А.П.ゼニコフ)だった。

20~30年代に共産主義大学、国立銀行(今の5月1日支店)、女性教員学校、鉄道、フルンゼ駅、印刷所、音楽学校、歴史専門学校、アラト-映画館などが建てられた。

10月革命の第19回記念日に、州庁舎(今のキルギス最高会議幹部会の建物。36年建 設計А.Ю.ドゥボフ)が建てられた。

30年代の建築の特徴で、柱列、柱廊、大きなアーチ型の壁抜き(医科大学 39年建 設計Ф.П.ステブリン ジルジンスキー大通り・トクトグラ通り角のアパート 設計C.X.サークヤン、 П.П.イワノフ、А.М.アリバンスキー)、キルギス民族模様の使用(キルギス最高会議幹部会の建物ホール入口 構成Б .ウィツ、Л.メサロフ)が現れた。

30年代は、20年代に始まった広場や通り、大規模な産業用建物などの一連の整備が続けられた。37年に初めて都市の地形図、基本的なフルンゼ総合計画ができて、戦前に首都の改良が始まった。住民のために防湿、衛生関係に最も注意し、都市内の個々の地区の関係が最良となるように、また全体配置、文化施設や産業、公共施設の配置を考慮した。

市内では、公園(Ю.フチカ記念公園 36年建)、小公園(中央地区 38年建)、庭園、新しい緑地帯、貯水池が起工した。

1940年、新しい建築様式で最初の建築がされた。パビリオン・ミネラルウオーター「アク・スー」近接して映画館「アラ・トー」(設計 A.M.アリバスキー、構成 O.M.マヌイロバ)。40年代最初の銅像(パンフィーロフ.И.В.及び Г.В.レーニン像 48年建 製作Г.В.ニロダ 設計  В.В.ベリュジスキー)が建てられた。

50年代は特に早いテンポで、学校、幼稚園、幼児園、職業学校、大学、医療、行政、文化生活などの施設が施工された。59年には複合施設 キルギス科学アカデミーと同盟会館が、「    」は57年に、51年には総合建築物のソビエト広場が建設された。55年にはオペラ・バレー劇場、そのあと同地区の建築物 Н.Г.チェルヌシェスキー記念国立図書館(62年)、ホテル・キルギスタン(71年)造形美術館(74年)、アイチュルク・デパート(74年)、トクトグル像が設置された。

50年代の公共施設は、ソビエト商業技術学校、空港、映画館“10月”、農業展示館(ВДНХキルギス)がある。プール、噴水、小公園などの小規模な建築も多く行われた。また、規格に沿った2階建て、3階建て住宅の大量建築が始まった。

60年に市で最初の5階建て住宅が、ビリンスキー通り(今のマナス通り)とレーニン大通り(今のチュイ大通り)の角に建てられた。住宅には、回廊、バルコニー、テラスが自然環境によく調和するように設けられた。60年代には商業用の建築がかなり速く進んで、東洋と西洋の工業中心地ができた。

60年代半ば過ぎから、その時代の要請にかなう建物が建てられた。工業研究所と研究施設、たとえばキルギス国立放送協会のスタジオ制御室、ラジオ会館、キルギス科学アカデミーの建物など。67年にキルギス共産党中央委員会とソ連キルギス共和国閣僚会議がある建物が建てられた(今の国会議事堂)。60年代の建築で、フルンゼ博物館(67年)が特別な位置を占めている。

70年に町の中間的な建築図案と基本計画が決定された後、首都の美的な建築物となる文化的な建物が建てられた。たとえば、キルギス演劇場(70年)、ロシア演劇場(71年)、レストラン「セイイル」(73年、設計A.И.イサエフ)、政治教育会館(74年)、レーニン・スポーツ会館(今のコジョマクール・スポーツ会館)、国民生産物展覧会場の主要な展示館・ВДНХ(74年)、生活サービスサンタ-(75年、設計 Ю.П.カリフ、Б.モルドバエフ、К.サルバノフ)、ホテル「ピシペク」(75年)、サーカス場(76年)、実験的な中学校の5番学校(80年)、国立音楽堂(80年)、マナス空港(81年)、西部バスターミナル(81年)、子供スポーツセンターのプール(83年、設計 К.サルバノフ、В.Д.ホフトほか)など。

心臓病大学及び付属病院や厚生省の主要施設である4番病院など、保健施設の建築に多くの注意が払われた。

70年代から社会文化施設と併せてアパートが建てられ始めた。たとえば、南門団地(今の10番団地)、ソビエト通りとボコンバエバ通り、プラウダ通りとオゴンバエフ通り、トクトグウル通りとスベルトロブ通りなどの交差点のアパートである。これらの建物は、気候の特徴を考慮し民族装飾を使用して建てられた。ソビエト通り、ビリンスカヤ通り、レーニン通り、マルクス通り、ミラ通りの景観がとてもきれいになった。

60年代半ばから20年間の建築は、キルギス国立建築計画研究所で作られた計画で行われた。たとえば、105シリーズの5階と9階建てのパネル式住宅(設計 Е.Г.ピサルスコイ、В.Е.セドフ、技師 А.И.モズゴボイなど)と106シリーズの9階建て高層パネル工法のアパート(設計 Е.Г.ピサルスコイ、技師 Е.Д.スヌチコフほか)、れんが造りの98シリーズのアパートである。

73年に9階建ての最初のアパートがビリンスキー通りとレーニン通りの交差点に建てられた。82年に「バイチェチェケイ」という店がある12階建ての最初のアパートが、ミラ大通りに建てられた。ジュキエバ・プドフキナ通りに大型パネルを使った105シリーズ最初の16階建てのアパートが建てられた。高層建築では耐震設計に大きな注意を払った。

79年にビシケク市中心部の詳細設計が決定され、この設計図でレーニン中央博物館の分館(今の歴史博物館)、レーニン図書館(今の国立図書館)、市役所、通信会館、コルホーズの市場、商業と生活文化施設、学校とその他(通り、広場、噴水、銅像、大小の公園)が建築された。

 

 

年代表           主なできごと

紀元前5千年~4千年    市の区域内に最初の生活跡があった(アラミジン住居跡)

紀元前7世紀~紀元5世紀  サコフ族とウスニ族の結合

5世紀~14世紀      ピシペク、クズルアスケル、チョキョルジョシュほかに住民の住居跡

15世紀~19世紀初め   キルギス民族は、現在の市区域あたりに遊牧していた。

1825年         コウカンド国のピシペク要塞の設置

1845~47年      カザフ汗ケネンモスカルモブの攻撃にキルギス民族が敗北した。

1845年         チュイ盆地のキルギス民族がロシア政権に対して、ロシア領となることを願い出た。

1860年8~9月     ロシア軍がチュイのキルギス民族協力のもとに、ピシペク要塞を攻撃。

1862年10月24日   ピシペク要塞を再度攻撃した。

1863年         キルギス民族がロシア国の傘下に入った。

1864年         コウカンド国が崩壊した。ピシペク要塞にロシア軍の前哨ができた。

1867年         トクマク郡の設置とアラミジン、ピシペク入植地の設置

1876年 4月26日~  トクマク郡役所がピシペクに移転した。ピシペクは町になりピシペク郡     5月13日   の中心となった。

1878年 8月31日   ピシケク町の建設計画の決定

1879年10月31日   ロシア正教の教育学校の開校式。最初の教育施設。

1881年         にれの木の植林

1883年         ドゥンガン人の大規模な村の形成があった。

1885年 1月21日   M.B.フルンゼが生まれた。

1885年         ロシアの探検家プルジバルスキーがピシペクを訪れた。(最初の訪問)

1889年         キルギス造園学校の開校式(1894年から農業学校)

1895年         無料公共図書館の開館

1897年        ロシア帝国の最初の国勢調査で、ピシペクの人口は6615人だった。

1898年        ドボブイ庭園の基礎を据えた。

1899年        最初の薬屋の開店

1903年12月初め   町に最初の非合法的な反政府宣伝ビラが現れた。

1905年8月6日~   民衆集会があった。

11月8日

1905年11月16日  ピシペク有線電信会社社員のストライキがあった。

1905年~1912年  社会民主主義サークルの活動があった。

1906年        家畜の定期市場が初めて開催された。

1907年 5月     入植した農民のために診療所が開所した。

1907年        移動上映映画が現れた。

1908年        ピシペクにロシア式学校が開設した。

1910年~17年    チュー川にかんがい施設の建設が行なわれた。

1911年        「メテオル」と「マルズ」映画館の開館

1912年        ピシペク通りに最初の自動車が現れた。

1912年 5月     男性用体育館の開設

1913年 3月31日